物事追及集 二〇一六年五月版
心臓に毛が生えている理由 「五月三十日」
『心臓に毛が生えている理由 米原 万里著 角川学芸出版 平成24年4月 1刷 ¥1、600+税』 (購入¥200税込み)
この著者の本は、以前にも拝見したのだが、毎回、この人(故人)は“大物人物だ!”と感じて仕方が無い。
単なる「同時通訳者」というより、「会話文化の相互伝達者」と呼ぶに相応しいのではないかと思う。
一般人の私達と直接の関わりは然程無かったのだが、亡くなられた時は、“勿体無い!惜しいな!”と思った記憶がある。
この本には、父君や母君の話が出て来るが、父君の共産主義的思想は受け継がず、母君の“口さがない”(?)癖は、反発していたのにも拘わらず、知らない内にうつってしまっていたという。
歳を取ってから気が付いたら、著者ご自身も同じように振舞っていたとか。
本の中味も興味深いが、さらに、池内 紀氏との対談 「プラハ・ソビエト学校の少女たち、その人生の軌跡」は、読み応えがあり、知らない世界での「物事の見方の多様性」を教わった気分だ。
シブすぎ技術に男泣き! 「五月二十八日」
『シブすぎ技術に男泣き! 見ル野 栄司著 中経出版 2010年2月 5刷 ¥952+税』 (購入¥200税込み)
この本(漫画)、なかなか面白かった!
色々なエピソードを選んで、それに絡む(主に中小企業の)人々の姿を描いてあるので、「技術」というよりも、「人物」やその「振る舞い」の面白さということになるのだろう。
“人は見かけに依らぬもの”の話もあり、また“汚さを含んだ日常性”などもそこそこ織り込んであるので、小説のような作られた面白さではないが、リアリティのある状況を知る・見ることが出来る。
例えば、倒産時の社員の為すべきは、素早く私物を持って退社する(逃げ出す)ってことや、新製品の納入後にトラブル続きで修理・保守に国内行脚の連続だってこととか。
また、新人や中堅クラスのミスを、ベテランが黙ってちょこちょこと手直ししてくれているって話なんか、やはり日本の職人(達)は苦労に耐えて健在なんだなぁと感じた。
理系思考 「五月二十六日」
『理系思考 分からないから面白い 元村 有希子著 毎日新聞社 2007年10月 1刷 ¥1、500+税』 (購入¥200税込み)
この著者の書き物は、どれも面白いか、興味深い。(既読例:「気になる科学」)
しかし、毎度思うことは、毎日新聞社の中での彼女や科学部の存在は「掃き溜めの(に)鶴」ではないか?と。(笑)
時々、毎日新聞の社説や特集記事を見るのだが、其処からは“旧くてコチコチで粗野な左翼頭”の中年男記者や老人論説委員達の姿しか見えて来ないのだが。
そんな会社の中で、こんな“すっきりした理系頭”の女性記者が、よくもまともに生延びて来られたものだと、感心する。(まぁ、大変結構なことではあるが)
ところで、この本の中で指摘されている話に関連することで、最近、私が気になっていることがある。
それは、例えば「PISAの斜塔」の項≒ゆとり教育関連のことだ。
教育で、「ゆとり=自由放任」を選んだら、途端に学力が下がってしまったわけだが、政令で「18歳以上を成人」にしたら、日本の国会や国会議員の質は、果たしてどうなる?
・・・言わずもがなで、当然、更に下落してしまうだろうってな予想・予測が出来る。(苦笑)
勿論、こうした“予測”は(単なる)「仮説」であり、それを「実証や結果」で裏付けなければ「科学的事実」とはならないだろうけど。
だが、そうした結果が分かった時点では、もう遅いわけだし、その時には、“崩れた砂山は、もう元に戻せない”という状態になっているだろう。
既にそんな悪例は、シールズとかいう「若者合コン集団」に、故民主党(現民進党)や共産党の議員達が凭れ掛かろうという愚行に見ることが出来る。
(自分達自身で、あるべき日本国の将来像も描けずに、幼稚な若い連中の尻馬に乗ろうという野党議員連中の愚かさは、救い難い。尤も、共産党の方は、巧妙に“彼らの利用”を目論んでいるらしいが)
旅する力 「五月二十四日」
『旅する力 深夜特急ノート 沢木 耕太郎著 新潮社 2008年11月 4刷 ¥1、600+税』 (購入¥200税込み)
この「著者名」と「深夜特急」の文字だけを見て買って来たのだが、やはり当ったり!だった。
裏話というか、個人記録というか、通常の小説とは違った、一種のエッセイのようなものだろうが、結構面白かった。
それに、興味深い話も其処此処にあって、参考になる。(・・・とはいうものの、私自身、それが参考活用出来るかどうか?といえば、甚だ覚束無いが)
ある節に、
『重要なのはアクションではなくリアクションだというのは。紀行文でも同じではないだろうか。どんなに珍しい旅をしようと、その珍しさに頼っているような紀行文はあまり面白くない。しかし、たとえ、どんなにささやかな旅であっても、その人が訪れた土地やそこに住む人との関わりをどのように受け止めたか、反応したかがこまやかに書かれているものは面白い。たぶん、紀行文も生き生きしたリアクションこそが必要なのだろう。』
とある。
うーん、確かに!「深夜特急」の面白さは、そこにあったのだと納得出来た。
教科書的な事実の羅列や、(皆が知らないだろう)知識の披瀝だけでは、どんな文章も面白くない。
そうした視点を知ると、これは読むべき本!これは即座に捨てるべき本!という仕分けもし易くなりそうだ。そして、乱読もまた愉しい!
しかし、そうした乱読・多読を助けてもらっているBOOK−OFFが、あちらで一軒、こちらで一軒と消えて行くのは、大変寂しい!
・・・というのは、各地域ごとで、本の集まり具合が微妙に違うので、大都会では出ても直ぐ消える本が、地方ではまだ残っている場合もあるからだ。
国産旅客機MRJ飛翔 (追) 「五月二十二日」
『国産旅客機MRJ飛翔 前間 孝則著 大和書房』 (承前)
実は、最近、色々出て来ている「一億総活躍」の中味案に、私は失望!
(産経ニュース記事:2016年4月16日)
どうやら、自民党や政府は、勤労者の「同一化・均質化」を目論んでいるようだが、日本の社会は、そんな“扁平”(≒みんな横並び)でいいのか?
どうして、人や仕事内容の「優劣や質」を問わないのだ?
そんな“均質な人間群”ばかりで、果たして、優れた研究や技術開発が出来、良い製品が作れるのか?
この本で、MRJの開発・商品化に関わっている三菱重工の幹部は、こう語っていたと紹介されている。
『いま当面する一番の課題は、プロジェクトを仕切っていくプロジェクトリーダーの人材が足りないことです。優秀であると同時に人格的にもふさわしい魅力のある人物で無いといけない。また、人を引っ張ってまとめていく強い精神力を持った人でないといけない。若いころからそうした向き不向きを見きわめながら、いろんなプロジェクトを実際に経験させながら育てていくしかない。』
以前の日本社会では、階層が違っても、「各自の能力や役割」を認識していたから、高低全体で調和が取れていて“日本式の良い協力体制”が作れていたのだろうと思う。
だが、昨今では、“同一職種・同一賃金”などと、「質」や「効率」はそっちのけで、「給金不平等」や「時短」や「福利・厚生の不満」の話ばかりしているようだが。
今の日本では、「物事の評価の仕方」が、相当的外れで、しかもいい加減になって来ていることが、日本の「長期不況」の元凶になっていて、それが、今後益々進行して行くように見える。
「東芝の赤字決算」や「シャープの身売り」、「三菱、スズキ自動車の排ガス不正」など、企業の体質劣化の様子を眺めていると、このMRJも下手をするとダメになる可能性があるような気がする。(杞憂であれば良いが)
国産旅客機MRJ飛翔 「五月二十日」
『国産旅客機MRJ飛翔 前間 孝則著 大和書房 2008年6月 1刷 ¥1、800+税』 (購入¥200税込み)
この本は、今(2016年)から約8年前の話なので、古びているかと思ったが、むしろ現実の方が“遅い=遅れている”感じだ。
(DIAMON ONLINE:2016年1月4日)
競争に打ち勝つために、最先端の技術を試しながら取り込んで行かねばならないから、航空機の開発、特に旅客機の開発は大変だろうと思う。
それに、開発に莫大な投資が必要だし、その販路の確保や、メンテの永続性などを考えると、私などのように肝の小さい人間には、足のすくむ思いだ。
それだけに、この国産旅客機が世界の空で飛び回る姿を早く見たいし、開発遅れで計画が頓挫などして欲しくない!という思いだ。
特に、こうしたRJ(リージョナル・ジェット)は、「市場への投入時期」は、大変クリティカルだそうだから、何とか間に合いますように!と祈りたい。
因みに、この本には、ホンダ・ジェットは、藤野道格氏という鬼才が先導したそうだが、やはり「技術や事業は人だ!」とつくづく思う。
MRJは、どんな人物が推進しているのかな?(今更の話だが、)それが問題ではないか?
大日本帝国の真実 「五月十八日」
『大日本帝国の真実 武田 知弘著 彩図社 平成25年2月 4刷 ¥1、300+税』 (購入¥200税込み)
この本を読んで、私が「知っていると思っていたこと」でも、実は其の事件の底辺に流れる別の意図、例えば、一般大衆の強い要求や抵抗運動で、止む無く意見を変えざるを得なかった「政府」や「報道/新聞」側の事情など、目からうろこの話ばかりだ。
これを読んでいると、いずれの「戦争」も、「日本国民自身」が望んだものであって、「軍部」、「政府」だとか、「報道」だとかに全部責任を押し付けてしまった感のある“国民自身の責任”を、一体、誰が?何時?問うべきなのか?ということを痛切に感じさせられた。
誰が主犯とも分からないまま、「日本国を戦争へ押しやった責任」を、為政者や軍務者達だけに押し付けて“事足れり”としているのは、如何なものか?
そうした、「無責任さ」は、反省や改善が無ければ、そのまま次の世代に引き継がれて行く。
例えば、「日本国憲法」の“前文”や“第二章”では、日本国平穏や世界平和などを、皆他人事(あなた任せの願い事?!)にしてしまっている事からも、それが言える。
あれなど、私達大人として、子供や孫達に対して、無責任極まりない話なのに!
世界の国々は、平和の方が得だと思えば平和を維持しようとするし、戦争が得だと思えば、黙って戦争を仕掛けて来るのが現実だ。
だから、日本国としても、単純に“戦争はしません!平和を求めます!”などと願うだけよりも、仮想敵国に対して「寄らば切るぞ!」ぐらいの凄みを見せて、平和を維持するつもりにならなければいけないだろう。
しかし、いずれにせよ「戦争」をするためには、巨額のお金が必要だそうだ。
国家単位の金勘定が出来る人間なら、お金が無いのに軽々しく「戦争」が出来るとか、するなどとは言わないものだ。
日本共産党が、先の「安保法制」を、調子よく“戦争法案”などと呼んでいたようだが、彼らはまるっきり金銭感覚の無い人間だということだ。
他方、隣では、着々と軍事設備・軍事費を積み増している国がある。本来なら、私達日本人は、皆戦々恐々としていなければならないはずなんだが。
(沖縄の連中なんか、米軍基地反対でお祭り騒ぎ?らしいが、呑気なもんだ)
・・・を科学する 「五月十六日」
『「見えないもの」を科学する 佐々木 茂美著 サンマーク出版 1998年4月 1刷 ¥1、600+税』 (購入¥200税込み)
「気」と呼ばれるものは、確かに存在するような気がするが、この本は、その存在を科学的に説明(?)したいということで、書かれているらしい。
だが、読み進めるにしたがって、段々胡散臭い感じが強くなってしまった。
まぁ、「宇宙の起源」や「宇宙の果て」が私達人間には、何処までも未知なように、「気」も分かる人には分かるし、使える人には使えるのかもしれないし、あるいは一般人も多少の恩恵は受けられるかもしれないが、やはり私達凡人には縁遠いモノなのかも。
私は見た!というUFOや、私は当たった!という宝籤1等賞みたいなもので、確かに“存在はする”のだろうけど、私達その他大勢には(面白がる以上には)然程恩恵をもたらしてくれるものではない、と思う。
私のクセで、つい、「それは皆の役に立つモノか?」、「誰もが自在に扱えるか?」という見方をしていると、こうした特殊過ぎる話、孤立した話群の寄せ集めでは、到底満足出来ない。
この本も、“こんな話があった、あんな話もある、ちょっと確かめたら、完全ではないが、こういう結果だった!”という、理詰めでない・脈絡の無い話群ばかりなので、「科学する」と言うにはちとオコガマシイのではないかな?
街道をゆく 三十六 (後) 「五月十四日」
『街道をゆく 三十六 本所深川散歩・神田界隈 司馬 遼太郎著 朝日新聞社』(承前)
読んでいて、先のは「水害」だったが、今度は「江戸の大火」の話に出会った。
徳川時代の初期には「水」だったが、中・後期になると「火」が人々を害するようになったことは、よく知られた話だが。
この中で、江戸っ子気質を物語る、大変興味深い話があって、著者は『・・・ 世にも不思議なことがある。・・・』と書いて居られる。
・・・
『ところが、世にもふしぎなことがある。
東京じゅうを火の海にした関東大震災(大正十二・一九二三年)のとき、神田はおろか東京の下町(したまち)(低地)のほとんどが焼けてしまったのに、神田佐久間町だけは、二丁目から四丁目まで涼やかに焼けのこったのである。・・・』
とあって、その後、神田佐久間町の人々が、周りから押し寄せる火という火に、果敢に立ち向かい、懸命な努力で、全て叩き消してしまった話が続く。
更に、
『足掛け二日、三十一時間にも及ぶ世界防火史上、類のない奮闘で、見返してやるんだという意気込みでいえば、いかにも下町っ子らしい働きだったといえる。・・・』
とある。なるほど!納得出来る(よく分かる)話だ!
こうした「働き」を周りが賞賛したとしても、当人達は「あったりめぇのことよ、べらぼうめ!」とかいった返事をしたのではなかろうかと想像するのだが。(微笑)
街道をゆく 三十六 (追) 「五月十二日」
『街道をゆく 三十六 本所深川散歩・神田界隈 司馬 遼太郎著 朝日新聞社』(承前)
この本は、積んである本の山に上から、時々思い出したように、取り上げて読んでいるのだが、ある時、ふと思った。
この著者の文章は、なぜ少しの抵抗すら感じずに、素直に読めるのかな?って。
私が自分で書く文章は、過不足だらけで、読み直す度に書き直したくなるのだが、この著者のは、“情景の描写”でも“人物の描像”でも過不足が無い。
例えば、故芥川龍之介氏について書かれた箇所(の一部)は、こんな具合だ。
『芥川の生涯はみじかく、三十五年でしかなかった。
そのうち創作期をほぼ十年とすれば、そのみじかいあいだに百五篇もの作品を書きのこした。作品の肥痩(ひそう)についてはここではいわないが、構成・文章においては同時代に卓越し、想像力のゆたかさにいたっては比類がない。その想像力に、江戸趣味の世界は、適(あ)いようがなかった。』
これは、本所生まれの芥川が「江戸趣味」というものを敬遠したらしいことの説明だが、すーっと読めて、あぁ、なるほど、そうなのか!と分かる。
・・・ しかし、こんな文章を参考に、自分で書いてみろといわれると、私にはお手上げだ。
自分の文章をいまさらに磨き直すってことは、曲がったオー脚をまっすぐせよ!といわれているようなもので、残念だが諦めざるを得ない。
やれるのは、“心持ちだけの精進”ってことぐらいかな。(自嘲)
願いのかなう まがり角 「五月十日」
『願いのかなう まがり角 岡田 淳作 田中 六大絵 偕成社 2013年6月 2刷 ¥1、000+税』 (購入¥300税込み)
この児童書は、大人の私には、大変面白く感じられたのだが、一方で、一般の幼児や小学校低学年の子供達が、理解出来たり面白く感じられるのだろうかと、気になった。
中の色々な小噺では、それぞれが、ちゃんとまともなオチで締めくくられている。
おじいさんと孫の男の子の会話は全て大阪弁だし、おじいさんの様々な法螺話をウソだと決め付けずに、男の子が大人しく相槌を打っている様子も微笑ましい。
だが、これを(放っておいて)子供単独で読ませるとなると、ちょっと考え込んでしまう。
やはり、解説を含めて、大人が丁寧に読んでやることが必要なのではないかな。
この話のままで覚えてしまうと、もし大人に成りきれないままで成長した時に、お粗末人間(?)になるからだ。
しかし、昔は、漢文の素読と記憶を繰り返しやるだけで、教養として成り立ったそうだから、自分自身で「繰り返しやる|やらせる訓練」の方が重要なのかもしれない。
街道をゆく 三十六 「五月八日」
『街道をゆく 三十六 本所深川散歩・神田界隈 司馬 遼太郎著 朝日新聞社 1992年4月 1刷 ¥1、600税込み』 (購入¥200税込み)
この著者の『街道をゆく』は、飛び飛びにしか読んでいない。
というのも、私は、短編集よりも長編の方が好きなので、専ら、長編ばかり選んで来たからだ。
そういえば、『この国のかたち』も、数冊だけだったが。
それは兎も角、この本は「表題」に惹かれた。
「江戸・下町」といえば、“古き良き時代の日本人の人情・情緒が、多く見られた場所”、というイメージがあって、きっと楽しめるだろうと思ったからだ。
そうした人情・情緒の話は、色々な小説(例えば、山本一力氏の小説)などで読み聞きはするのだが、もう少し第三者的な眼、特に関西人のこの著者の眼で見たら格別ではないか、きっと面白かろうと思った。
確かに、“あ、なるほど!”といった話やら、しんみりさせられる話もある。
それよりも、もっと遠目から見た話も、興味が尽きない。
例えば、本所・深川辺りは、昔、湿地帯でそれを埋め立てた土地だってこともあり、屋敷内の池や川の洪水や水浸しの路面、果ては、蚊などに関する「水」にまつわる話が、色々出て来て面白い♪
当時の人々にとっては、飲用や水運以外の「水」は煩わしいものだったろうし、それらに耐えながらの生活は、あまり(古き)“
良き時代”などではなかったかも。
それでも、皆元気に(?)生活していたようだから、やはり(苦労はあっても)“良き時代”だったのかな?
心の旅路(DVD) 「五月六日」
『心の旅路(DVD) ロナルド・コールマン,グリア・ガースン主演 マービン・ルロイ監督 ジェームズ・ヒルトン原作 シネマ・クラシック 1942年(米映画モノクロ)』 (購入¥500)
「DVDプレーヤ WDV−DQ001」が直ったようなので、それを確かめようと棚から取り出したのが、この「心の旅路」だが、つい、また惹き込まれて最後まで見てしまった。(図1、図2<クリック>)
第一次大戦の後遺症で記憶喪失になった男が、束の間の新しく得た幸せの記憶を、交通事故に遭って以前の記憶を取り戻したために、失ってしまう話。
その短い幸せの時に、その男を愛し、支えた女性の、後日の報われない日々での健気で献身的な振る舞いに、心を打たれる。
(シングル・マザーが増えているらしい昨今、そうした連中が、これを見たら、何を感じるだろうか?いや、カワイイ!イイネ!程度の感想はあるかな?苦笑)
ところで、原題の「Random Harvest」は、語感からは“雑な収穫”や“落穂拾い”とかを連想してしまうが、原題のままよりも、むしろ日本題の「心の旅路」の方が風情があって良いと思う。
近頃は、映画の題名も“横文字直訳のカタカナ”が多くなり、“風情”もへったくれも無いものばかりだ。
まぁ、SFめいたもの(「アバター」)やアニメ(「ファインディング・ニモ」)などは多少難しいかもしれないが、日本語でも表現可能(例えば「仮身」や「ニモちゃんやーい!」とか)なのに、敢えてカタカナ原題の方を使いたがるのは、如何なものか?
イヴと七人の娘たち 「五月四日」
『イヴと七人の娘たち ブライアン・サイクス著 大野 晶子訳 ソニー・マガジンズ 2001年11月 1刷 ¥1、600+税』 (購入¥200税込み)
この著者の「アダムの呪い」を読んで以来、是非読みたいと思っていたのだが、幸いやっと先日入手出来た♪
やはり、この本は、話にちゃんとした筋があり、それも論理的なので、読み易くて参考になる。
大変興味深かったのは、『ミトコンドリアDNAの中にある「Dループ」の安定性』の話で、「Dループ」が安定で変化が少なければ少ないほど、祖先を追って行き易くなるという。
逆に、途中で突然変異が頻繁に起きていると、それらからの枝分かれの数が膨大になってしまい、末端(=現在)から祖先を遡るのが難しくなるということだが。
ということは、幸いにして「七人の娘たち」というからには、「イヴ」誕生から現在までに、その「Dループ」は7回だけ突然変異をしたということらしい?!
そして、遡れば、15万年前辺りで、それが集約されて「イヴ」となるわけだ。
と書けば、簡単にそこまで進んだように思うかもしれないが、実は、そうした結論を導き出すために、著者達は地道に、DNAサンプルを集め続け、分析し続けて来たそうだ。
また、途中で、DNAの効果的な分析手法や機器類の開発などにも、助けられたという。
それにしても、「ミトコンドリアDNA」の話は、聞けば聞くほど(読めば読むほどかな?)興味を惹かれる。
私達人間というもの(生物?人物?)が、深い処で分かって来るような気がするからだ。
人間学や社会学、ひいては哲学などは、すべて「DNA研究」の上に築いて行けば、統一的に組み上げられるのではないかと思ったりもする。
ヤクザと原発 「五月二日」
『ヤクザと原発 福島第一潜入記 鈴木 智彦著 文藝春秋 2011年12月 1刷 ¥1、500+税』 (購入¥200税込み)
福島原発事故の時、その後始末作業に、ヤクザ稼業人達が多くの労働者を斡旋したり、また下っ端自らが稼ぎのために出入りしたりしていたという噂を、新聞記事などで読んではいたが、もう少し詳しい実情を知りたくて、この本を買ってみた。
やはり、「原発事故処理の作業」など「安全未知の領域」では、科学的に正、不正とか、倫理的に善、悪とか、法律的に適法、不法とかいったの「判断」は、私達がこれまでの経験で積み上げて来たものだけでは、簡単に仕訳が出来ないってことのようだ。
例えば、放射能汚染事故の地域で、「割増し賃金=危険手当で」さえ払えば喜んで働く人が、どれだけ居るか?ってことだが、そうした働き手が必要なだけ直ぐに見付かるか?とか、その「割増し賃金」を「東電」が幾らでも無尽蔵に出せるか?とか、ヤクザ手配の作業員は排除すべきか?などを問うても、現実問題として、即答は難しいだろう。
それに、放射線による影響は、個々人によって随分異なるはずなので、その「割増し危険手当て」が妥当なのか、過大なのか過少なのかも、本来は決め難く、決めたとしてもいい加減なものになる。
現実には、それが灰色や黒色の“ギャップ”として残るわけだ。
そんな“ギャップ”を、効果的に“埋めてくれる存在”が必要なのは、当事者達は皆分かっているのだが、部外者や門外漢が、遠くから原則論だけで大騒ぎをするから、世の中は厄介だ。
ふと思ったのが、“地元の住人ではない連中”が「原発反対」や「原発停止」を訴えて、“地元でない地裁”が、権限も無いのに「原発再稼働認めず」の判決を出した話だ。
より遠くからなら、更に広い視野で、日本全体のことを考えて「原発」の必要性や有用性を訴えるのかと思ったら、逆なんだな。
狭い「私的・個人的」な“放射能に対する恐怖感情”だけで、「公共性・公益性」などを否定するんだもんな。 ・・・(愚かな)「地裁」までもだ!
「私欲」や「私権」が、平然と「公共性」を損なうようになって来ると、「(日本式)民主主義」も、そろそろお仕舞だな。
いずれ、「公よりも私権の優先」から、やがて「私権と私権のぶつかり合い」が増えて来ることだろう。
そして、米国のように弁護士が増え、余計な訴訟が増え、日本も訴訟合戦だらけになる!
・・・いや、実は、そうなって欲しくないし、日本人皆の目が覚めることを期待したいものだが。