導育甘言集 2012.08 [我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴)]へ [表紙頁]へ
生態的思考 [031]
『生態的思考のすすめ 勝田 光俊著 TBSブリタニカ 1993年7月 1刷 \1,800税込み』 (購入\105税込み)
この本をちらりと見て面白そうだったので、「日本権力構造の謎」(下記↓)は暫くおいといて、これを先に読んでしまいました。
「はじめに」にあった、“・・・生態的思考によって、倫理学ではなく倫理を、社会学ではなく社会を、経済学ではなく経済を見直してみたいのである。・・・”も、惹かれた理由のひとつ。
同じような「論文」でも、こちらの方がより生々しい感じがするし、それに分かり易いですね!(“成る程!そうだそうだ!”と思った箇所が一杯あったので、弾みで沢山の「細しおり」を作ってしまいました。左写真<クリック>)
その内の一箇所・・・「いじめ」のない教育は、人間関係の免疫性を欠く無菌人間づくりともいえる。・・・「いじめ」のない教育は、生態的地位を自分で獲得できない人間をつくる残酷な教育ということになる。・・・
私も、子供達は「いじめ」に負けないような強い人間に育てねばならないと思っていますが、近頃では、母親達や女性陣、果ては老人や男性までもが、“優しさ、大人しさ”しか求めなくなって来ているので、日本も更に“軟弱−ジリ貧スパイラル状態”ですねぇ。
深川駕籠 [0829]
『深川駕籠 山本 一力著 祥伝社 平成14年9月 1刷 \1,700+税』 (購入\53税込み)
この著者の時代小説は、気散じに向いてます。忙しくても、ちょこちょこっと読める。
内容は、今の時代ではないのに、バイアスロンもどきの競争をやったりして、“えっ?そんなのあり?”と思ったりもするけど、それ程無理な設定でもなく、その時代に合っていそうなので、楽に読めました。(読み終えるのに、半日も掛からず)
しかし、考えてみると、「日本権力構造の謎」下記↓のような「論文」は、なかなか読み進められないけど、これとの違いは一体何?
「小説」は、話の筋がほぼ一本だから、頭の中が乱れることは少ない?
でも、「論文」は、節毎で話の中身が違うから、頭をちょこちょこ上手く切り替えないと、千々に乱れてしまうわけです。
で、少し「論文」の読み方を変えて、各節の項目をじっくり見てから、その節を高速で読み飛ばしてみました。
ところが、知っている内容だと軽く飛ばせるのに、知らない事柄が出て来ると途端に鈍足になってしまう。(こりゃ、単純には行きませぬ)
結局、新たに覚えねばならないことが沢山混じっているので、「速読」より「速記憶」方が必要で重要かもな!と思いました。
(孫達に、“本を読め!本を読め!”と勧めているのですが、読めないのは、その“覚える事”がネックになっているのでしょうかねぇ?)
決断できない日本 続 [0827]
日本人の特性を、米国知識人から見たら、こう↓見えるそうです。(実は、日本人の私も同感なのですが)
▲ 醜いものを見ない(見ようとしない)文化
(例えば、京都の神社仏閣の見事な日本庭園の傍らに置かれた殺風景な自動販売機)
▲ 極度に失敗を恐れる(軟弱な)精神文化
(例えば、「失敗は許されない」から、失敗した時にはどうするか?などと、事前に考えるのもいけない)
そのために、慎重になり過ぎて、即刻すべき決断がなかなか出来ない。関係無い振りをして責任逃れをする。
先の責任者だった菅直人氏などは、福島原発事故の後始末に失敗していたのに、何の責任も取らずに、逃げようとしていますね。
また、日米同盟を危うく壊しかけた鳩山由紀夫氏などは、無責任にもまだ議員で居残ろうとしているようですが、本当なら恥ずかしくて議員なんかやって居られないでしょうに!
(私は、多少は損でも失敗を恐れず、ダメ元でやるべし!と思っています。まぁ、失敗も沢山してますからね)
決断できない日本 [0825]
『決断できない日本 ケビン・メア著 文藝新書 2011年9月 3刷 \780+税』 (購入\105税込み)
この著者、元米国務省外交官メア氏は、公平に見て、日本国・米国お互いのために尽力して下さっていた/いるようです。(そうした内容も、沢山盛り込まれています)
ただ、日本人との交渉の際などに、「丁寧に淡々と事実・真実」に言及されることもあるようなので、それがとても耳に痛く感じられる一部の日本人からは、気嫌いされていたのではないかと。
他方、この著者が嵌められて、国務省を辞職する切っ掛けになった相手の仕掛け人達(沖縄の反基地運動家や倫理観欠如の「共同通信」の記者)は、裏付けのないウソ情報を全報道にバラ撒くといったような汚い手でも、平気で使うみたいですね。
「共同通信」の評判は、あまり芳しくないように聞いていますが、ちょくちょくこんなことをやるからでしょうか。
連中は、「反基地」という“格好の良い理想論”を元にしているのだろうと思いますが、“真面目だから嫌いな相手”を攻撃する時は、“卑劣な攻撃手段”も辞さないらしい。しかし、連中に狙いを付けられたら、逃れる術は無いのでしょうか?
まぁ、日本のマスコミは、悪意であろう善意であろうが、ニュースになりさえすれば、何でも彼でも、無節操に(だけど偏向的に)ばら撒く習性があるようだから、難しいでしょうね。
ところで、あの報道「沖縄はゆすりの名人」を見た時、“あ、これはきっと沖縄人全員のことではなくて、一部の“反基地運動家達”のことを指しているんだな!”と感じたのは、私だけでしょうか?
日本権力構造の謎 続 [0823]
いよいよ、日本国の『権力』は一体、あるのか無いのか?あるなら、何処に集中しているのか?の分析に入って来ました。
で、どうやら、「政府」や「官僚」や「財界」の何処にも、日本国全体の責任と権限が集中した部署や人物は居ないらしいということです。(勿論、首相なんて、互選で出て来る“只の長”で、すべて党のご意向に従わねばならない)
確かに、各集団内にはヒエラルキー/階層があって、その頂点に立つ「長」が居ることは居るのですが、それらのどれか一つが日本国の頂点に居るか?と問えば、決して、それはない!
それなのに、外から見れば、国全体としては何らかの意思があるかのような動きに見えるという。
それで思うのは、夕方になると餌を求めて洞窟から夕空へ飛び立つ蝙蝠の集団(丸で、伝説の竜の飛翔)の姿です。
この本では触れられていないようですが、上述の話から、私は、戦後の「東京裁判」が思い浮かびました。
米国や諸外国が、中東のイラクやシリアを攻める場合、権力者だったフセイン氏やカダフィ氏を追い落せば決着したのですが、第二次大戦後の日本の後始末は、実権力者不在のため「東京裁判」で何十人、何千人もの「戦犯」を作り出さないと片付けられなかったわけです。
(まぁ、日本人は皆、“戦争は犯罪だ!”と云われると、ごく自然に“そうかもなぁ...”と思ってしまうのですが、世界の常識から言えば、「戦争は国家間の喧嘩」ですから、やっても“両成敗”か“痛み分け”で、どこにも“犯罪”だとする根拠などは無いのです!)
日本権力構造の謎 [0821]
『日本権力構造の謎[上] カレル・ヴァン・ウォルフレン著 篠原 勝、大久保慶の、カーティス・エバハード訳 早川書房 1990年9月 1刷 \2,400税込み』 (購入\105税込み)
流石に、こうした論文は歯応えがあって、簡単には飲み下す事が出来ませぬ。まだ、百頁までも進んでな〜い)
でも、各所々々で、「なるほど!」と頷(うなづ)いたり、「そんな見方もあるんだなぁ!」と感心したりしています。勿論、中には、なかなか納得し難い指摘もありますが。
例えば、『日本では、現実に対するとらえ方が柔軟すぎて、それは他の社会で許される、辻褄の合わない弁解や身勝手な方便の許容限度をはるかに越えている。たとえば、欧米式の契約や法律、国際協定などに訴えると、・・・ その場に応じた温かい人間的な感情によるべし ・・・ と断られる。逆の要請に対しては、・・・ 日本はちゃんとした法治国家だからと、反論されてしまう』(つまり、気の短い外人なら、“一体、どうしろってんだい!?”と怒り出す場面らしい)
私(達)日本人の感覚からすれば、そんなことはあまり無いはず!...と思ったのですが、もしかしたら通産省や農水省の役人達が「対外交渉」をする時には、案外そんな風なやり取りをしているのかもしれない。日本の役人連中は、結構、そうした「交渉術(−責任回避ののらりくらり作戦)」を使うらしいと聞いた事があります。
だから、私(達)自身はそうでないと思っていても、外国人から見れば、日本人はそんな“曖昧模糊”風に見えるかもしれないですね。
ふむ、昨今の「尖閣諸島」問題に関しても、シナや台湾から見ると、日本人の反応の仕方がヘンでも、気にならないのでしょうかね!
(むしろ、同じ東洋人だから、分かるのかな?)
あかね空 [0819]
『あかね空 山本 一力著 文藝春秋 平成13年12月 2刷 \1,762+税』 (購入\105税込み)
この著者のは、読んでいて時々引っ掛かる所があるのですが、概ね面白いものが多いので買って来ました。
この本も、所々で主人公達のフラッシュ・バックがあるのですが、一瞬“ぬ、くどいな!”と思った箇所もある。でも、ほどほどのハッピーエンドだから、ま、いいか!
内容は、日本人特に女性や老人なら、つい泣かずには居られない!?(かもね)
こうした人情話でよくある筋、“自分(達)の思いや感情を押し殺しての振る舞い、言えば相手が傷付くだろうと言わないまま、余計にお互いの意思疎通を難しくし、悲劇にしてしまう”のは、日本人の特性なのでしょうか?(それとも、人間全般なのか?)
それを解きほぐしてくれるのは、物事の分かった親分だとか、謎の渡世人(ヤクザ)など第三者であって、当事者同士では全く解決出来ない?...いや、したくないのでしょうかねぇ。
どうも、私達日本人は、何事にしても「解決は、他人任せ」(第三者依存症、女性的)な処が多くて、見ていて歯痒い(はがゆい)!
尤も、そういう特性があるから、こんな人情話が「売れる小説」になるんでしょうか。(苦笑)
それで、思ったのは、『人事を尽くして、天命を待つ』のではなくて、初めから『天命を待ってるだけ』というのが(へたれ)日本人の生き方なのかも、と。課題は、その内誰かが解決してくれるだろう!って?でも、若い人達がそれではダメなんですよね!皆が“へたれ”になっちゃう!
なぜ骨がないのか [0817]
『ヒトのおチンチンには なぜ骨がないのか 増原 良彦著 徳間書店 1986年7月 2刷 \1,200』 (購入\105税込み)
どうも私達現代日本人は、「性 セックス sex」を恥ずかしいもの、汚いもの、異常なものとして、出来るだけ隠したがる傾向がありますね。(大体、“H”って言い方からしてヘン)
今話題の韓国の「商売慰安婦問題」は、日本人のそうした弱み?につけ込んだ(韓国ヤクザによる)国際版“ゆすり|恐喝事件”だろうと思います。
““俺の女”に手を出したな!謝るなら金を出せ!”って。つまりは、大掛かりな美人局<(つつもたせ)の話なのです。
(女性的立場からすれば、悪いのは引っ掛かった男の方で、賠償金を払うのは当然。 で、裏で紐を握って脅している奴は悪くない。 ・・・ というような実話は、この本には書かれてませんが、“性への幼稚な羞恥心”は、往々にして犯罪のターゲット/的にされ易いってこと)
この本では、セックスを素直に、大人的に考えて、“生物としての必然性”や“社会的な状況・機会での是々非々/善は善悪は悪”と上手に仕分けした上で、精々楽しみなさい!と、ユーモアを交えて書かれています。
(人間の場合、同属集団への責任や義務についても、もっと書いてあれば、若い人達の「性への理解」が、更に進むと思うのですが)
・・・ 口直しに、この本の中で紹介されている面白い話を二題。
昔、男性が「一人身」の時、そのおチンチンには骨があった。一人身では可哀想だと思った神様がそれを抜いて、連れ合いとして女性を造ってくれたのだそうです。(そいや、西洋聖書でのアバラ骨を使う話は...ないない!ちゃんと数は揃ってますからね。...笑)
海のタコは、正規の性器?が無くて、オスは「交接腕」を使うそうですが、その「手」の話。
昔、海岸で昼寝をしていたタコが、やって来たネコに足七本まで食われてしまい、気が付いて急いで海に逃げ込んだ。
ネコを海の中へ引き摺り込んでやろうと考えたタコは、水の中から「おいで、おいで」をしたら、ネコは言いました。「その手は喰わねぇ!」と。
かくして、日本のタコは、足が七本で、手が一本なのだそうです。
我々だけの自衛隊 [0815]
『我々だけの自衛隊 松原 正著 展転社 平成3年12月 1刷 \2,500税込み』 (購入\105税込み)
この著者は、昭和1桁生まれの真面目な硬骨漢のようですね。
“古めかしい漢字と假名遣い”による歯に衣着せぬ物言いは、読み難いこと甚だしいけれども、所々で“クスッ♪”と笑わせて貰いました。
こんな文章は、最近の人達はまともに読めないだろうから、啓蒙・普及のためには「現代仮名遣い」にした方が良さそうに思うのですが、一方でこうした文章も、無くしてしまうには勿体無いから、このまま残しておきたい気もします。
しかし、『愚かで無邪気な渡部昇一氏』とか『海部俊樹氏は ・・・ 土井たか子女史が言ひさうな馬鹿げた事を言ひ』とか、実名を挙げてこき下ろして居られるのは、余程、論争にも自信をお持ちなのでしょうね。(さうでなくっちゃあ!)
私達日本人は生来の「気弱さ」から、極力穏便に済ませたいと思う気持ちが強いので、他人に対するあからさまな非難は好まないのですが、こと国防や戦争に関しては、実際には奇麗事では済ませられないから、常に他者や他国に対して「ハッキリした発言や行動」は重要なことだと思います。(つまりは、メリハリの利いた態度で、物事を処すべきだってこと!)
この本を読んで私が思ったのは、自衛隊を粗末にしか扱えない日本(人)は、次第に“素人好みの国”に堕して、結局自国をちゃんと守れずに、やがて自滅してしまうのではないかと。
自衛隊、海上保安庁など「仕事に熟達した専門家集団|職人気質の集団」は、その重大職務を尊重し、皆で大事にしなきゃあ!
医師のホンネ [0813]
『医師のホンネ 柴田 二郎著 新潮社 平成4年9月 11刷 \1,300税込み』 (購入\105税込み)
この著者は、かなり物事の是々非々に厳しく、ビシビシと正論を吐かれる人物のようで、内容を拝見していて身が引き締まる思いがしました。(つまり、もし職場の上司だったら、厳しくて怖い人物のような感じがしました)
本の内容の多くは、納得の出来る正論だと思いますが、ただ気になる箇所もありました。
それは、「科学に名を借りた迷信」の中の「学習障害児の教育」において述べられている、“人間の才能は天賦のものだ”という考え方。
これに関して、G.ドーマン博士の“脳障害児の治療”の実績などを、ご存知なのかどうか?
才能を天賦のものだとする従来の考え方は、断定出来るほど確実な事なのかどうか?
もっと、色々な試みや実例を調べた上で書いて欲しい!と思いました。
私は、“天賦の才能”って、かなりの部分が後天的で、先天的な“生体機能が全て”ではない!と思うからですが。
(まぁ、頭の悪いのは、死ななきゃ直らん!と言い切られると、なかなか否定はし難いのですが、それは「育てられ方」が拙かっただけなんだと分かれば、今後に対しては「打つ手」があるはずですよね!)
周公 旦 [0811]
『周公旦 酒見 賢一著 文藝春秋 平成11年11月 1刷 \1,333+税』 (購入\105税込み)
この本の書き出し部が気に入って、買いました!で、読み終えて、納得!
『周公旦が、成王に疑惑を持たれ殺されかけた時に、亡命先として(安全なはずの)魯や斉、燕ではなく、その時代に一番危険だとされた楚を選んだのは何故か?(著者は)そこに興味を持ったからだ』と書き始めてありました。
私には、“周公旦”という人物の話は初めてだし、時代背景も良く分からなかったのですが、殷や周の(神話・伝説?の)時代には興味があるし、話も、著者の狙いがはっきり書かれていて、なかなか面白そうだ!と思って。
途中、「殷」は「周」の主家だとあったり、太公望呂尚という人物が出て来たりで、興味津々。
最後まで読んでみて、確かに“漏斗で水を集めるように”最後には、なるほど!そうだったのか!と納得のいく形に纏まっていました。(その反対の例)
事実だけを沢山並べてあっても、興味を持って読めない本は、やはり“出来が悪い!”と思った方が、良さそうですね。(義務教育用の歴史教科書などもそうかな?) この本は、“良質蔵書”として保存しておきます。
日本に挑む中国 [0809]
『日本に挑む中国 古森 義久著 PHP研究所 2007年1月 1刷 \1,300+税』 (購入\105税込み)
この本で、著者は(正統派)ジャーナリストの立場から、私達が日頃見過ごしている問題点群の丁寧な洗い出しをされています。
私の勝手な想像ですが、元々この著者は、「現代支那(中国ともいう)≒中共の世界への挑戦」というテーマで、考えておられたのではないかと。。。でも、それは到底無理(実態に合わない)ですね。
実態は、“中共首脳部連中の志向”が(覇権争いに明け暮れた春秋戦国や三国時代の各地の覇王みたいに)、単に周りの“東南アジア各国や日本(や米国)へのちょっかい”以上のものではないからですが。(今時、他国を攻めるための軍備増強に力を入れようって処が時代遅れ!)
現実は、(民主化によって生まれるだろう)支那全体の民力を結集・活用しようとはせず、それをひたすら抑え込み、“中共首脳部”だけで国威を高揚させようとしているように見えます。
そうした今の状況は、(張りぼて状)上下内外矛盾だらけで、私達周りの国にとっては、対応にも困るし甚だ迷惑至極ですね。
もし、China(支那)に、昔のような『中華』を再現させたいのなら、まず“王様を置きなさい!その王様を中心に、しっかり固めた国造りを進めてはどうですか?”と薦めたいですね。そうすれば、多少は矛盾が少なくなる?だって、今の中共には、畏敬・尊敬すべき神々や天皇や賢者のような精神的支柱が皆無だから、“中華”になり様が無い。(あはっ!これだと、余計に近代化には逆行することになるかな?)
銭売り賽蔵、他 [0807]
『銭売り賽蔵 山本 一力著 集英社 2005年2月 1刷 \1,800+税』 & 『かんじき飛脚 山本 一力著 新潮社 2005年10月 ?刷 \1,700+税』 (購入各\105税込み)
江戸時代には、「銭売り」という商売があったんですねぇ!(左写真の左側)
その銭売りを主人公にした話だったのですが、読み出したら止(や)められなくて、つい夜更かしをしてしまいました。
金板・銀粒などは一々秤で重さを量って価値を決める「秤量貨幣」ですが、庶民が使う小銭/鉄銭は、1個で1文という「計数貨幣」だったということや、「銭売り」が、“庶民のための小額両替屋”だというのを読んで、“なるほど!”とよく分かりました。
しかし、小銭(鉄銭)を沢山背負って運ぶ/体力勝負らしかったようだから、沢山売ろう/両替しようとすれば、結構キツイ仕事だったでしょうね。
この時代、商売を大きくしようとすれば、幾らでも、“塵も積もれば山”式の需要/市場が掘り出せたようで、主人公の才覚が見せ所になっています。
他方、「かんじき飛脚」の方は、読み進んでかなり鼻白みました。(左上写真の右側)
節の区切りが拙くて、緊張が更に高まりそうな寸前に、別の“話題”に切り替えてしまう(細切れ)現代手法(?!)を多用していて、読まされる側は、何度も気を殺がれて、イラッ!と来ます。
それに、金沢−江戸間の緊急時の連絡方法(の速さ)や、飛脚達やその荷を狙う「お庭番」達の能力(の低さ)などが、妙に気になりました。
こうした小説は、全部を納得させながら読ませるものではないだろうけど、あまり疑問を感じさせないように描くのが“手腕”だろうと思うのですがねぇ。(「捨て童子」での話のスムーズさに比べ、数段の見劣りを感じました)
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『家庭教育の原点 上廣 榮治著 倫友出版(株) 昭和59年8月 4刷 \880』 & 『幸福の定義 勝田 修弘著 東急エージェンシー出版部 1996年9月 3刷 \1,300税込み』 (購入各\105税込み)
左写真の本は、どちらも読み取り失敗の部類でした。
“原点”や“定義”と言うからには、きっと表層部を取り除いた共通核になる部分で、誰にでも何時でも通用する|使える本質的な話だろう|かもしれないと思って買って来たのですが、残念ながら、どちらもそうではなかった。
読んでみて、両方とも表層の話ばかりで、ガックリ!つまりは、(この本では、何も分析などはしていないから、)“「原点」や「定義」は自分で考えなさい!”ってことのようです。
こんなのだったら、「家庭教育の様々」とか「幸福になるノウハウ」とかいった表題にすればいいのに!...昔「名は体を現す」といった名句/迷句がありましたが、どちらの本もそれに失敗しているようです。(昔は、こうした内容でも有り難がって読んでいましたが、今では、殆ど役に立たない!ってことが分かるようになりました)
文学部 [0805]
『文学部唯野教授 筒井 康隆著 岩波書店 1990年6月 7刷 \1,300税込み』 (購入\105税込み)
うーむ、これを、単なるドタバタだとするか、難解だとするか、はたまた著者の独り善がりだとするか、何とも決め付けが出来ませぬ。
でも、7刷りの好評発売本だったらしいから、きっと多くの皆さんは面白かったんだろうと思いますが、私は殆ど愉しめなかったです。
要は、前提になる人名や思想、用語などに精通していないと、何を云っているのかが殆ど分からないのですから。
まぁ、「文学書」だって「技術書」だって、どちらも同じといえば同じだから、勉強不足・教養不足を責められれば、“マイリマシタ!”と言わざるを得ませんけどね。
まぁ、この本にも出て来るロマンロランの「ジャン・クリストフ」や「魅せられたる魂」やショーロホフの「静かなドン」などは読んだことはありますが、そんなのはこの本で必要な教養の“埋め草”1束にもならないみたいだから、つまらん!
暇で暇で仕方が無くて、これ以外に何も読むものが無い時に、もう一度トライしてみる気になったら引っ張り出して来ましょう。それまで、この本はお蔵入りにしときます。
捨て童子 [0803]
『捨て童子 松平忠輝 (1,2,3) 隆 慶一郎著 講談社 1992年4月 9刷 各\1,500税込み』 (購入各\105税込み)
この本は、“歴史小説”ではなくて、“伝奇小説”なんですねぇ。いずれにせよ、大変面白かった!
史実と矛盾しないように描きながら、隙間、いや大部分を創作で補って絵巻物として完成させた物語ですが、全編矛盾が無くて、継ぎ目がスムーズなのに、感心させられました。
尤も、主人公(松平忠輝公)や周りの助っ人達が、あまりにも強過ぎる!敵との闘争(殺し合い)の際にも手際が良過ぎるのが気になりますが、そこが“小説”たる所以ゆえんなのかな。
他方、忠輝公を排除したがっていた2代目将軍秀忠公が、かなり陰湿・偏狭な(やや悪人風の)人物に描かれていますが、実際はどうだったのでしょう。
ネット検索などでは「徳川秀忠公」の人物像はあまり詳しくは判りませんでしたが、堅実に(徳川幕府)体制の維持に努めた人物のようで、家康公による天下統一からの安定化時代を継続させた功績はあるようです。
まぁ、どの時代の人でも、どのような立場から見るか|どちらに肩入れするかによって、善人・悪人の評価は変わるでしょうから、悪人として描かれている人物も、出来るだけ別資料などで、見ておくべきだなぁと思いました。
椿と花水木 [0801]
『椿と花水木−万次郎の生涯−[上,下] 津本 陽著 読売新聞社 1994年4月 3刷 各\1,500税込み』 (購入各\105税込み)
これを読んで、中浜/ジョン・万次郎氏の“人”としての生き方に、羨ましさと尊敬を感じました。
極貧の家に生まれ育ちながら、勿論運にも恵まれていたのでしょうが、漁で遭難し、無人島生活から捕鯨船の船長達に救われ、米国で(船長や周りの助けを受けながらも)自力で実力を身に付けながら逞しく生きて行く姿は、素敵ですね。
しかし、その『努力する|努力出来る力』は、一体何処から来たものなの?と、気になります。
(私などは、努力しなければいけない!とは思っても、なかなかその努力が続かない。だから、実らない|実りが少ないわけです)
その『力』は、親からの遺伝要素でもないでしょうし、生まれ育った環境のせいでもないでしょう...となると、戻ってくる処は、やはりそうした努力をしようとする“自分自身の心”?!
(運の無い凡人は、大きな成果など期待せず、ちまちました努力でも、また“善きかな!”)
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