モグラの繰言 2011.12 我楽多苑 別亭へ (真面目な愚痴!)
教育は救われる? [1230]
『これで日本の教育は救われる 渡部 昇一著 海竜社 平成12年9月1刷 \1,500+税』 (購入\105税込み)
この本で指摘されている多くの事柄は、それぞれ重大な意味を含んでいるように思いました。
その中で、注目すべきご指摘がありますが、それは、以前は『子供に対する母親の無私の愛』が社会を支えて来たが、今はそれが薄く、無くなって来ているので、今後もどんどん“(人間的には)荒(すさ)んだ世の中”になって行くだろうと。
(著者は、“アマゾネス”や“蜜蜂社会”を例に挙げられていますね)
確かに、昨今の情況を見ると、“男女同権!”だとか、“母親も社会に出て働こう!”だとか云った甘言に唆(そそのか)されて、一番大切な母親の“社会的に意義のある仕事”を放り出して、“自分の幸せ”を満たすためだけに熱を上げているように見えますね。
“子供を健全に育てる”ってことは、大変重要な“母親の社会的義務”なのに!(叫ぶのは権利ばかり?)
(先般の大河ドラマでお江さんが言ったという、『戦さは男(おのこ)の仕事、政略結婚は女(おなご)の仕事じゃ!』ってのは、皆にどう聞こえ、どう響いたのでしょう?...私は、“お、男女同義務を知ってる!”って思いましたが)
更に、著者は「男女共学」にも疑問を呈されています。
そういえば、「七歳にして、席を同じうせず」や『七五三祝い』の七歳は、生物学的に重要な意味がある!これは、深く考え直すべき事柄だと思います。
子供は三歳で“個”を意識し始め、女の子は五歳で“女性”を確立し、男の子はやっと七歳で“男性”になるわけです。違っているのに、無理矢理「共学」という桶に放り込んでごちゃ混ぜにするってことは、“愚かな間違い”ですよ!別々に育てて、それぞれの良い処を十分伸ばさせてやるのが、社会・大人の責務だと思いますがねぇ。子供達は、やらせば一杯出来るんですよ!
死都日本 [1228]
『死都日本 石黒 耀著 講談社 2002年9月1刷 \2,300+税』 (購入\105税込み)
近未来の日本−九州“霧島火山帯大噴火災害”を描いたSF小説ですが、2011年3月11日の「東日本大震災」の預言書みたい!(しかし、「破局的噴火」の火山砕・降灰による被災規模は、放射能汚染の数十倍らしい)
しかも、“(ポピュリズムで与党になった)日本共和党−菅原首相”と来たから、想定・設定は将にドンピシャ!
でも、話中の“首相”は、現実とはまったく逆の大変有能な人物で、事前予測やその隠密準備に対する適確な指示や手配は、見事なものです。勿論、有能な部下達が居て、それらをちゃんと組織化出来てこそでしょうが。
今の日本の現状では、(官僚達からの指示を貰わないとちゃんと仕事が出来ない素人)政治家達ばかりだから、こうした“広域大規模災害発生時”には、邪魔なだけで全く役に立たないでしょうね。
やはり、主人公−黒木助教授のような『専門オタク』のような人達の“組織体”でしか、国は救えないだろうなと思いました。(要は、緊急時に対処するには“素人集団”ではダメだってこと!)
病気は自分で(続) [1226]
『病気は自分で治す 安保 徹著』 (既述)
この本と同じ主旨かどうかは分かりませんが、家人は、常に“病院は嫌い!”と、行くのを嫌がります。私の方は、必要なら行きますが、薬を安く貰える/買えるのを期待してであって、“医師の診断や治療”の方はあまり当てにしていません。結核などの伝染病だと周りに迷惑を掛けるから、気になる時の検診は必要でしょうけど)
この本では、最近益々増加しているらしい「ガン検診」や「ガン治療」は、“患者、医者の双方に、誤認識・誤解・誤処方がある!”と指摘されています。(左写真&<クリック>)
「ガン」なんて、他人や医者が治すものではないし、治せるものでもないらしい。(もし、治ったら、それはひとえに当人自身の免疫力のせいだって!)
“手術”や“抗がん剤”や“放射線治療”などは、薬などを投入して身体全体を抑圧/攻撃するから、本来身体が持っている免疫力を、更に弱らせてしまうらしいですね。
おまけに、医者は末期には“余命宣告”までするそうですが、余計なお世話だそうで。
余命宣告なんてのは悪業であって、善意なら、黙って“患者に、自分でゆったりと治す機会を与えることだ”と思いました。
病気は自分で [1224]
『病気は自分で治す 安保 徹著 新潮社 2006年5月6刷 \1,200+税』 (購入\105税込み)
この本にも、自分に役立ちそうな色々なヒントが沢山取り上げられていました。(左写真)
“そんなことぐらい、昔から知ってます!”という人も大勢居ますが、自分の身体で実際に活かそうとして、コツコツやる/やれる人は少ないらしい。
それはそうと、中に書かれていたことで、塩気(NaClやKCl、NaイオンやKイオン)が「血液」を良い状態に保つために、重要な役割を果たしているのが分かって、“なるほど!そうかもしれない!”と納得。(左写真<クリック>)
では、健康を保つには、塩気を多く取ればよいのか?と、勿論、そんな短絡的な解釈はしません!
しないけれども、時には、外出から帰って来た時、塩水で嗽(うがい)をしたら咽喉が軽くなったり、塩コンブや沢庵が食べたくなったり、美味しいと感じた時には、もしかしたら、身体(全体)がそれと無く要求していたのかもしない♪と思っています。
近頃、私は、出来るだけ“そうした身体からの声”(?)に耳を傾けるようにしていますが...でもまぁ、やり過ぎて、健康で長生きし過ぎるのも考えものでしょうかねぇ。(笑)
人間、無趣味の人でも、自分の身体を実験台にして、病気で(を利用して)自分の身体を試してみたり、身体から声(?)を聞いたりするのを趣味にすれば、結構面白いと思うのですがねぇ。まぁ、下手にのめり込むと逆効果でよくないでしょうけど。
歴史の使い方 [1222]
『歴史の使い方 堺屋 太一著 講談社 2004年2月1刷 \1,600+税』 (購入\105税込み)
この本は、大変面白い視点から、世界の歴史を眺める事を説いて居られますね。
各地域の歴史を同時並行的に見ると、常に“騒然としている世界”が良く分かる!
実は、昔大学受験の前に、吉岡 力氏の「世界史概観」(だっけ?)を、念入りに読んでいた憶えがあります。
その時に感じたのは、色々な文明(アッシリアやエジプト文明、中国文明など)が、脈絡も無くポコポコと現れては消え去ったのは、何故だろう?って。でも、当時は年代・事件や人名・地名だけで、それ以外は無駄だったから、後で“活かして使う”なんてことは考えもしなかった。
この本のような視点で解説されたものがあったら、当時も随分面白く世界史を学べただろうと、今更ながらに思ったり。
それにつけても、あの無味乾燥な“干からびた教科書”だけで、生徒達がアップアップしているのは、どう考えても、可笑しい!
もっと沢山の書籍や資料を、どんどん自力で読んで学習して行くような教育体制を、創りたいですね!
[同時並行的に]
今の大阪市の橋下市長の考え方の根底には、そうした“教育改革”もあるようですが、現体制維持派の抵抗も強いから、大変らしい。(私も、“外野からでも応援しなくっちゃ!”と思ってます)
中大兄皇子伝 [1219]
『中大兄皇子伝(上、下) 黒岩 重吾著 講談社 2001年5月1刷 各巻\1,700+税』 (購入上下\210税込み)
聖徳太子の次の世代、舒明天皇の長子−中大兄皇子、後の天智天皇の「一人称表現」による黒岩版伝記ですが、興味深かったので上、下巻を一気に(でもないか?他に2,3冊挟まってるし)読んでしまいました。
中大兄皇子は、賢明さも持ちながら、感情的に激し易かったようですが、こういった強い個性の持ち主でなければ、「政治の改革」などは出来なかっただろうと思います。
でも、果たして、それが“改革”だったのかどうか、疑問が湧いて来ました。
蘇我入鹿の用心深さよりも、中臣鎌子(後の藤原鎌足)の智謀と中大兄皇子の蛮勇?の方が、勝っていたので、蘇我氏は倒されたのですが、結局は、蘇我氏(仏教推進)と中臣氏(神祇(じんぎ)復権)の権力争いに過ぎなかったようにも見えますね。
その後、人望のあった大海人皇子(おおしあまのみこ)に、政権を引っくり返されてしまったそうですが、どう展開するのか、大海人皇子の方にも、興味が湧いて来ました。(好奇心は尽きないですねぇ...)
サージカルテープ [1217]
冬になると、水気不足で手がかさかさ。それより嫌なのは、親指の爪先の“地割れ、ひび割れ”(左写真<クリック>)
これをくっ付けるのに、市販の“薄膜シート”や、時には“セロテープ”などを使っていましたが、長持ちしない。
偶々、百五円ショップで、「サージカル・テープ」を見掛けたので、買って使ってみました。(左写真)
このテープ、一旦引っ付くと、水濡れにも強く、結構長持ちします。時々舐めて、指に水気補給?も出来る!
しかも、「長さ9m」もあるので、手洗いの度に1cmずつ取り替えても、十分一冬は越せそう。
こんな不具合?などは薬局、薬店へ行くより、先ず“百均”へ行って探して、工夫すべし!でしょうね。(笑) 出来れば“病”も、“百均”の材料で工夫して治すってのが、一番では?..え、安っぽ過ぎる?
強育論 [1215]
『強育論 宮本 哲也著 ディスカヴァー 2004年6月3刷 \1,400+税』 (購入\105税込み)
まったく!この本は、痛快ですね♪(読んで“痛いけど快感がある!”って意味です)
普通人には耳の痛いことを、平気でズバズバ仰ってる。
でも、成果を出しているらしい学習塾(宮本算数教室)の主宰の言なので真実味はあるし、信頼に足るご意見・見解・方針だと思います。
近頃では、何かというと、“優しさ”だとか“癒し”だとか、“ペット類”が、持て囃されていますが、この著者は、「子育て」に関しての現状を、手厳しく批判されています。(左上写真&<クリック>)
例えば、「ゆとり教育」という言葉は、「楽しい殺戮」、「ゆかいな病気」、「明るい一家心中」と同じくらい相反した概念だとか。
それ(「ゆとり教育」)が間違いであったとの反省から、今では、段々改善されているような感じを受けていたのですが、どっこい!この本を読んで気が付いたのは、実は世の中、未だにその「ゆとり教育」を続けているっていう事。「0歳児からの学習」なんてのも、放ったらかしですからね。
大昔(例えば、聖徳太子の時代)の天皇家や豪族の子供達は、生まれると直ぐ他家(従者達)で育てられたそうですが、これは将に「0歳からの選良(者)育成システム」では?
今の我等庶民も見習うべきですね。“子供達全部が選良(者)”になったって、構わない!し、そうするべきです。(似非教育者や教育官僚達の唆(そそのか)しに乗って、ゆるゆる教育ではダメってこと)
ただ、子供達のこの時期は“親からのたっぷり愛情を必要とする期間”でもあるので、「家族の愛情」と「学習」の両立のさせ方は、色々工夫しないといけないとは思いますが。
龍笛の巻 [1213]
以前、映画で“安倍 清明と源 博雅の陰陽師”を、大変面白く観たのですが、それで清明役を好演されていた、
野村 萬斎氏が、気に入りました。
偶々、BOOK-OFFでこの本を見掛けたので3冊纏めて買って来ました。(陰陽師 龍笛の巻、他\315税込み)
この本の後書きによると、映画化の際、著者が清明役として「野村 萬斎」さんを指名されていたそうですが、“なるほど!優れた選択眼だ!”と、独り合点。
画面を通してだけですが、萬斎さんの、真面目で、前向きで直(ひた)向きな姿勢を拝見していて、日本の伝統芸能=狂言なども、こんな方達に演じられ支えられていれば、長持ちするだろうな!と思ったり。
(日本独自の伝統文化って、私自身あまり身近に接していないのが、ちと恥ずかしい)
並列処理 [1211]
『幼児は算数を学びたがっている G・ドーマン、J・ドーマン共著、久富 節子訳』(左写真&既述↓)
著者達の示されている「ドット群の資料」を見ていて、気が付きました。(左写真<クリック>)
これは、少し前に流行った「速読法」の考え方、やり方と同じで、『視覚情報の並列処理』ではないですか!
例えば、幼児に眼に入り易い範囲で「沢山(94個)の点群」を見せながら“これは、94”と教えると、幼児はそれを“数(かぞ)える事無しに”(数の)「94」と覚えてしまうらしいのです。
勿論、慣れさせるために、数の少ない方から順に増やして覚えさせて行くのですが、後では四則演算や代数などにもこの方法が使えるそうです。(考えてみると、当たり前のことか?!)
大事なのは、“単純な形”で基本だけを覚えさせること!(“余分な雑音”を入れては、ダメ!)
他方、現在の『速読法』は、出来るだけ眼の視野を広くする練習をしてから、全体を眺めるようにして、一瞬で“全体”や“個々”の意味を読み取るように練習をするのだそうですが、これも!ある意味、眼の網膜センサから入った情報の“一括並列処理”ですよね!(大人の硬い頭だと、物凄く難しい!)
そういえば、私達が本などを読む場合、通常は「眼」からの情報を一々“頭の中の声”(大変鈍足!)に変換して読んでいますが、実際には全部が眼に入っていて、総て網膜センサで受け取っているし、それらは脳内ネットワークで瞬時に処理出来るはず。(やらせてないのは、私達自身の訓練不足と怠慢!)
だから、それらを全部一度に脳で処理出来るように訓練すれば、“数の把握”や“数の計算”などの(頭の中の)計算は、随分高速になる!
現に、ソロバンの上達者は、計算を“算盤珠の像”だけやるそうですが、これなども似ていますね。
で、よくある問いに、“計算が速くなって、何が得なの?”などがあるようですが、例の“死蔵知識を沢山持っているだけ”とは違って、“脳を上手く使える賢さ”が身に付くでしょう。(と思います!)
その「賢明さ」は“皆が協力して生きる為の良い道具”になります。賢い人間だけが、世の中を推し進めるのではなくて、皆が協力してより住み良い世の中を作って行けます。
(著者のドーマン博士は、そうした人口を10億人くらいにしたいそうですが。↓)
幼児が学ぶ [1209]
『幼児は算数を学びたがっている G・ドーマン、J・ドーマン共著、久富 節子訳 サイマル出版 1993年11月改訂新版 \1,800税込み』 (購入\105税込み)
左写真の右側は、先日読んだもの(下記↓)で、どちらの著者も『幼児期の学習と親の支援』が最重要だと指摘されています。
そして、どちらもベストセラーにはなっているのですが、教育界では、何の波風も立っていないのが、大変残念です。教育官僚達は相変わらず居眠りしているし、地方の教育委員会も、制度改革などには絶対反対だし、
それに、世の中も、従来のぬるま湯的因習から抜け出したくないし、余計なことをせずとも、“なるようになる♪”ので、“今の学校教育で、何が悪い!”と居直る向きも多いかと。また、良い成績で優秀な子供だと、嬉しいはずなんですが、でも親より優れると妬ける?(苦笑)
この本では、親がすべき「学ばせ方」の具体的な方法が、丁寧に示されています。
「使用する資料」も、手間は掛かるだろうけれど、親が自分達で作ることは容易なものです。
(悲しいことに、高学歴の親ほど、ずるいのか、そうした“資料を用意する手間”を省きたがる傾向があるそうですが)
この本で、改めて思ったのは、「教える」のではなくて、子供(達)に「学ばせる」べきだという事!
しかし、それは放置・放任の意味ではない!実際に、(奉仕的に)手伝ってやらねば、進まないのです!
今までは、私は「教育」つまり“教え育てる”という言葉を安直に使っていましたが、この言葉は良くない!本質的に、間違ってますね。やはり、『導育』とでも、いうべきでしょう。
つまり、親は、スキーのジャンプ台のようなもので、子供がより遠くへ飛べるように支援するのが役目であって、自分達が引っ張ってやろうなんて、オコガマシイと思いますね。(時には、悔しいでしょうけど)
悪いのは [1207]
『悪いのは子どもではない 公文 公著 くもん出版 2004年17月第18刷 \777+税』 (購入\105税込み)
この表題は、実は「悪いのは、親(達)だ!」と言いたかったのでしょうが、そんな事を言うと親のやる気を殺(そ)いでしまうので、口が裂けても、いや筆が折れても書けなかったのでしょうね。
子供達の保育・教育に関して、この本には有益で厳しいヒントが、沢山示されています。
例えば、並みの親がよく云う、“性格や能力は、子供次第だ”という考え方は、『親の責任逃れだ!』と書かれています。
最近、私も、つくづくそう思うようになりました。
幼児期にちゃんと親が為すべき保育・教育を、(何でも、周りから学ぼうとしている)“子供自身任せ”にして、“子供は、あるがままが一番だ♪”といういい加減な手抜き思想で、皆が納得してしまっているのが恐ろしいですね。行き着く先は、大多数が『ジリ貧』でしょう。
(それに早く、タイミング良く気が付いた親達が、優れた子供達を育てる事が出来るのでしょうね)
役小角(えんのおづぬ) [1205]
『役小角仙道剣(えんのおづぬせんどうけん)] 黒岩 重吾著 新潮文庫 平成17年12月発行 各\819+税』 (購入\450税込み)
役小角(役行者)は、持統天皇(女帝)、藤原不比等の時代の修験者で、本来は自分のためだけの修行をしていたのですが、修練によって“異能”を持つに至り、病を治したりして農民達から畏敬・崇拝された実在の人物。
虐げられた農民達を救おうと活動し始めた矢先、時の権力(群)に追い出され、伊豆へ島流しにされてしまう話なのですが、なかなか興味深かった。
その中で、黒岩版役小角が、賛同者−貴族の高市麻呂にこう溢(こぼ)しているのが印象に残りました。
『...ゆえに絶えず苛められ、貧しい生活を強いられている民が憐れなのです、仏教は現世の差別に抵抗せず、いや眼を背け、民に仏の慈愛を説く、冷酷な律令が施行されても、忍耐と慈愛を説くでしょう、今の仏教は民の反抗心を奪う痺れ薬のようなものです、...』
つまり、「抵抗」や「改革」などは説かない“宗教”の本質を突く、厳しい批判だと思いますね。
因みに、当時の“律令制度”は、国を整えるためのものだったはずなのですが、むしろ農民を搾取する上で、権力者(達)には大変具合が良い制度だったようです。それなどを考えると、目下懸案の「国民総背番号制度」も“要注意!”ですね。
磐舟の光芒 [1203]
『磐舟の光芒[上]、[下] 黒岩 重吾著 講談社 1993年5月第1刷 各\1,500税込み』 (購入2冊\210税込み)
これは、古代権力闘争史の中の敗者側、大連-物部守屋の物語。
先日、勝者側、大臣−蘇我馬子、厩戸皇子(諡(おくりな):聖徳太子)の“勝ち戦の話”を読んだ後なので、この本を読んでいて、負けが分かっている人達の“健気(けなげ)な生き様”が気の毒になりました。(それは、例の日本人的“判官贔屓(はんがんびいき)”というやつでしょうか)
昔の権力闘争では/でも?“(武)力”だけが総てではなく、“知識や知恵”も、有効な武器になったようです。
勝ち側が導入しようとした“仏教”は、一種の“戦いの道具/武器”のようにも見えました。
西洋の“キリスト教”は、未開発国・地域を、西洋人が植民地化するための道具/手段として持ち込んで行ったものですが、考えてみると、古代から“宗教”というのは、碌な使われ方をしていないですね。
(それで思うのは、若い人達が早い時期から“宗教”などに溺れて欲しくないと思ってます。あれは、単に道具・手段であって、目的にすべきものではないからです)
快癒力 [1201]
『快癒力 篠原 佳年著 サンマーク出版 1996年8月第9刷 \1,600税込み』 (購入\105税込み)
昔から、“病(やまい)は気(き)から!”と言われていますが、多くの人達は“それはそうでしょうけど、そう言われてもねぇ...”で終ってしまいます。(他人が勧める迷信は信じられても、自分は信じられない)
そして、何か“痛い”、“辛い”などの気配があると、いそいそ?と病院通い医者通い。(まぁ、時には、私もですが)
この本の著者は現役の医師で、ここで書かれている事「自分で病気になりなさんな!」は、各自自分でやってみれば、“正しい話”かどうか、“メリットがある”かどうか、直ぐ( ・・・ でもないけど、)分かるって話なのですが。
いずれにしても、他人に頼らず、“自力が病気を排除するんだ!”とか、“薬は単なる自力の補助なんだ!”と信じる?/念じる?ことが、一番効果があると書かれてます。私も、そうだと思いますね。
でもまぁ、それがやれない人達や、やる気が無い人達は、何時までも病院通い、医者通いというわけです。
(私などは、意地悪いのか、他老人の事はどうでもいいのですが、“医療保険料”が高くなることや医者達が次第に“病気作り屋”になることで間接被害を被るから、そちらの方は何とかしたいものです。死に至る病でも、医者が“プラシボ”でも処方して、これで直るからとっとと帰れ!って患者に言うようになればいいのですが)
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