物事集 二〇一九年一月版
『熱き心』 「一月三十日」
『熱き心 山本 寛斎著 PHP新書 2008年4月 1刷 ¥740+税』 (購入¥108税込み)
私は、山本 寛斎氏の“ファッション作品”は、余り好みではない。
だが、“プロデュース作品”や“氏の生き方”は、好きだ!
まぁ、好きといっても、追っ掛けなどをするわけではなく、遠くから眺めさせて貰うだけだが。
昔、初めて、何かの雑誌で、氏の“ファッション作品”を見た時、「ワッ!こんなのは、とても肌に合わない!」と思った記憶がある。
だが、その後、愛知県で開かれた「花博」へ行った時、ある“プロデュース作品”を見て、これはいいな!作者は誰だろう?と調べたら、『山本 寛斎』とあった。
それ以降、好きな面だけでなく、極力全体を拝見するようにしている。
先日、偶々、「近現代史」の本を探している時に、目に留まったので、この本を買って来た。
読んでみて、同感!と、快哉を叫んだ。
中の一節に、こんな記述がある。
『...身内だけではない。朝の散歩からの帰り道、元気に登校していく小学生たちの姿を見ると、「きみたちは、ちゃんと愛されて良かったね」と胸が熱くなる。幼い子どもたちが幸せでいられる社会を、私たち大人が守っていかなければと改めて思うのである。自分で言うのもおかしいが、弟たちに向けたと同じような優しさや愛情のようなものが、今も私の体からあふれ出しているのである。...』
他方、私自身は、幼児・幼年期に、氏のような悲惨で厳しい体験はしていないが、幼児期に、母方の叔父の一人から、大層可愛がってもらったという話は聞いていた。
自分自身には、左程強い記憶は残っていないが、今から思えば、そうした叔父の“気持ち/心/愛情”を引き継いで来ているのだろうなと一人合点している。
先の週末、大阪・天王寺のある寿司屋で昼食をとっていた時、食事の済んだらしい家族連れが後ろを通って行ったのだが、その中の2〜3歳くらいの男の子と目が合った。その拍子に、お互いに、にこっと笑って手を出し合って、何となく“ハイタッチ”をしてしまった。
その時に感じたのは、「あ、この児は、(好奇心に加えて、)気持ちに余裕/豊かさがある♪」と。
只それだけのことだが、その日の残りは、うきうきしていた。(笑)
『哀しき半島国家 韓国の結末』 「一月二十八日」
『哀しき半島国家 韓国の結末 宮家 邦彦著 PHP新書 2014年2月 3刷 ¥800+税』 (購入¥108税込み)
近頃、私達の日本国と北朝鮮、南朝鮮との間の関係が、酷くギクシャク(!)、というより、南朝鮮/韓国が完全に日本を敵視し始めて来ていることもあって、一介の庶民・市民ながら、少し“地政学”や“歴史”の勉強を始めた。
とはいえ、そんな大層な“学問”ではなく、“一般教養”程度のつもり。
で、朝鮮(韓国や北朝鮮)は、昔からどんな位置付けだったかと言えば、何か宝物が埋まっているわけでもなく、単なる盗賊団・匪賊連中の巣食う場所、両班(貴族)達の収奪の場所に過ぎず、中華(漢、元、隋、清など)から見れば、日本との交易路の中間・中継地点としても、大変危険な地域だったそうだから、魅力的ではない、むしろ厄介な土地だったらしい。
(今でも、習さんは、頼って来る北の金さんには、“まぁ、地続きだから仕方ないかぁ...”といった対応だが、ヘンに擦り寄って来る南の文さんには、いい顔しても何の得にもならないから、あからさまに、いやーな顔をしている様子が報道されている)
時代が下って、日本は、世界・列強の権益拡大や侵略を意識した時、戦争に勝って“清国の脅威”が取り除けた後、次は“ロシアの南下”が脅威となって来たという。
本来なら、朝鮮半島が、自主的にしっかりした防波堤の役割を担ってくれる(気力や能力がある)なら、問題は無かった/少なかっただろうが、朝鮮にあった王朝は、内紛・権力争いに明け暮れていて、まったく文化的な独立国の態を為していなかったそうだ。
この本では、“彼らは、常に事大主義的であった”と書いておられる。
つまり、その王朝(や両班達)は、強い側に素早く寝返るのは、当たり前のことであり、そして“民”(?)も、そういった調子。
むしろ、“多くの下層の一般の人達”は、“国民”という意識も無かったらしいが。
そんな中で、日本がやったことは、“植民地”としてはまったく魅力が無いが、“自主独立の国”としてなら意味が有る、そういう立場で、“対ロシアの防波堤”の役割を担って欲しいと願って、国際法下で合法的に“日韓併合”を行った上で、“自国内投資の形で”、多大の有形無形の投資を行ったそうだ。
(ところが、それが今、私達の日本国にとって、裏目々々に出て来ているらしい。いわく、“合法的もへったくれもない!日本は、勝手に朝鮮に余計なことをしやがって!”...だそうな。事大屋の方から見れば、今の日本は、要求すれば何でも、はいはいと譲ってくれる弱い国だからってことか?だが、強い国の習さんには疎まれてるし、北の金さんは少し強そうだから、一緒になりたい?ww)
この本では、そうした歴史認識(!)と詳細な地政学的分析の上に立って、今後の幾つもの展開・収束シナリオを描いておられる。
それによると、私達の日本は、やはり、いずれのパターンでも、多大の出費を強いられることになるようだ。
その日本の財政に関して、財務省系は、「消費税 増税」をして、国費を溜め込もうと画策しているそうだ。
一方で、日本政府(安倍内閣)は、デフレ状態から、ようやく脱しそうなので、「アベノミクス」を継続し、更に生産・経済活力を増す為には、“増税は駄目だ!”と必死で抵抗(?!)しているらしい。(話がヘンだが、それが現実らしい)
というのは、(別の書籍や資料によれば、)自民党内部にも、(派閥的な)反対勢力や(増税派をマインド・コントロール下においている)敵性勢力が入り込んでいて、“デフレ状態の内に、もっともっと日本の国力・気力を殺(そ)いでおこう!”と画策・暗躍している為らしい。
とすれば、私達日本庶民・市民は、単に、“増税は嫌だ!するな!”と叫ぶだけで良さそうだ。(苦笑)
以前は、私自身も、大したことはないだろうから“消費増税”はしても止むを得ないと思っていたのだが、この書籍を拝見して、実は、そんなのは“焼け石に水”で、これからとんでもなく大きな出費が待ち構えている!ってことに気が付いた。
それなら、昔のバブル期のように、皆が“釈迦力”になって、生産力・経済力を上げておかねばいけないことになる。
さて、どう転ばすかは、安倍首相の“肝の据わり具合”に拠るだろうと思うが、「戦地日本籍韓国人売春婦(所謂、韓国人慰安婦)」に加え「戦時日本籍韓国人労働者(所謂、徴用工)」の(不法・無法な)個人賠償請求に対して、日本側(各省庁・大臣達)は、お金で(しか)対処出来そうにないと回答するような、将に、へっぴり腰的お粗末さを、厳しく叱れないようだから、果たしてどうかな?
(米国トランプ氏のように、おまえは首だ!と処分したり、昔の豊臣秀吉公のように小田原評定勢をあっさり叩き潰したようには行かない?)
『CGS 日本の歴史』 「一月十九日」
先日から、「You Tube」の幾つかの番組にどっぷり浸かってしまって、もう他の作業はそっちのけ状態。
今、嵌っているのは、『CGS 日本の歴史』で、今はその途中まで。
(CGS 日本の歴史 プロローグ〜)
拝見していて、いずれのお話も、目からうろこ状態!しかも愉快!v(^-^)
(新聞の放送欄には)“なるほどそうだったのか!”という番組もあるそうだが、このネット番組の内容は、将にそれ!いやぁ、それ以上だ!
こんな面白い話が、よく見られているのか?と考えると、(だぼハゼ的庶民の)私自身がやっと今頃気が付いたほどなので、恐らく、まだ一部のネット族の人達だけではないかな?...しかし、勿体無い!
この番組は、活字が嫌いな人種でも、お話の内容も大変面白くて、しかも、“そうだったのか!”と“目かウロコが剥がれ落ちる状態”になるから、途中でやめ難いのが難点!?
何処かの国は、捏造した歴史を、懸命に国民に教え込んでいるそうだが、私達の日本国もその例外ではないらしい。
例えば、日本の飛鳥時代の古墳は、実は開墾して耕作地・畠・畑を作る際に出る「多量の土砂を計画的に盛ったもの」で、お墓でもなんでもないことや、後からお墓にしたものも結構あるらしいことや、仁徳天皇稜が、あれほど巨大だったのは、天皇の治世下に大規模な畑・畠作りが勧められ/進められ、その残土を、崩れないように形良く積み上げただけのことであり、結果収穫が大幅に増え、天皇が“民のかまどは賑わいにけり”と詠まれ、それで、おくり名が“仁徳”になったらしいことなど、素直に納得出来る話ばかり。
確か、以前、青山 繁晴氏も、天皇は、常に民のことを考えていたということを強く指摘されていたような記憶もある。
他方、ばかばかしいのは、「古墳」を“民が、それを作るために強制的に駆り出された”とする説を未だに唱え続けている学者達や教科書があるが、現に、お墓になっていない古墳(?)も沢山あって、彼らは説明に困っているそうだ。
そんな、“あ!なるほど!”の話が満載で、外国人でなくても、“日本歴史ファン”になること間違いなし!と思った。
「湯泉地温泉」 訪湯 「一月十一日」
寒くなったら温泉探訪も良いが、温泉ならやはり硫黄泉だな!と、家人と話していて、関西一円で探したら、奈良県の山奥・十津川村の「湯泉地温泉」が良さそうだ。
昨年暮れから、(休日や祝祭日を避けて)一月に行こう!と計画していたのだが、山奥なので、やはり“積雪・スリップ”や”通行止め”が嫌だ。
でも、この所、温暖なので、多分積雪は無いだろうし、お天気も好天が望ましい!(観測ではなくて、希望的要望!笑)
「十津川村役場」の屋上に据えられた「“役場前ライブカメラ”の映像が常時見られるので、“訪湯”前夜まで道路の様子を見ていた。・・・ウム、特に問題は無さそうだ!(図2<クリック>)
朝発って、約3時間の道のりで、途中は狭い道でのダンプやトラックとのすれ違いも多かったが、昔のような気の荒い運転手達とは違って、“狭い道でのすれ違い”なども、こちらが恐縮するほどの丁寧さだった。
先に訪れた(目当てだった)「滝の湯」(休業日:木曜)は、予想外の“臨時休業”だったが、もう一方の「泉湯」(休業日:火曜)の方は、営業中!だったので、裏の河原に車を停めて、訪湯。
公衆浴場にしては、少し狭い感じもしたが、(幸い?なことに、)他客は3組ほどだったので、ゆっくり入浴出来た。
此処の露天風呂は、(“晴天”も手伝ってくれたので、)快適で、十分に愉しめた!
ただ、当日は“硫黄泉独特の臭い”があまり感じられず、少し残念ではあったが。
尚、「滝の湯」の方は、泉源から遠いこともあって、偶に“臨時休業”があるようなので、次回は注意して行こうと思う。
『星の光、いまは遠く 上、下』 「一月九日」
『星の光、いまは遠く 上、下 ジョージ・R・R・マーティン著 酒井 昭伸訳 早川書房 2011年6月 1刷 各¥780+税』 (購入 各¥108税込み)
この小説は、(好きなはずの)SFだけど、“本当に面白いのかな?”っと、ずっと疑念を持ち続けながら、でも、最後まで読んだ。
まぁ、最後まで読めたのだから、結局は面白かったのだろう。(苦笑)
中身は、一種の冒険小説で、男同士の“友情”、一人の女性に寄せる様々な“愛情”、昔の騎士道にも似た“矜持”と“決闘”などの話が、SFチックな衣・記述を纏って描かれているわけ。
何処が“SF”なんだろうと考えてみたら、一人乗りの「スカイスクーター」とか、(今様の「拳銃」もあるが、更に充電が必要な)「レーザー銃」があることくらいか?
1シーンを描写するのに多行を費やしている箇所が多いが、それを追うのが面倒なので、時々読み飛ばしていた。
つい、歯切れの良い北方 謙三氏の小説「水滸伝」や「楊令伝」などを思って、このSF小説も、もっと記述を切り詰めればどうなるのかな?と余計なことを考えていた。
だが、これの英語表題「DYING OF THE LIGHT」(直訳:“光の死”)を見て、「星の光、いまは遠く」なんて洒落た日本語表題を、(“風味”を理解出来ないで)“もっと切り詰めれば?”と思う方が可笑しいのかも、と独り反省!
孔舎衛坂廃駅 見る 「一月七日」
昨年秋に、近鉄線・東青山廃駅を探訪した後、もう一箇所廃駅があるという話を知って、近鉄線・石切駅近くの近鉄線・孔舎衛坂(くさえざか)廃駅を尋ねてみた。
其処は、(秘境でも何でもなく)新興住宅街の外れにあって、反対側を見れば、そうした住宅の屋根越しに大阪平野のかなりの範囲が見渡せる所。
だが、残念なことに、廃駅跡は立ち入り禁止になっていて、中に入ってプラット・ホームを内側から眺めたり、奥の神社(白龍大神)を拝することも出来ないように、柵が巡らせてあった。(図2<クリック>)
まぁ、昨今の一部の日本人や観光客のマナーの悪さを考えれば、こうした処置も止むを得ないだろうと思う。
積極的に保護・防御しなければ、こうした歴史的な遺産は、残せないのが現実だもんな。
マナーの悪さといえば、近頃の“韓国(人ら)”は、大人・成人に成れていない“悪餓鬼”のようにみえる。
趣味の悪い“韓国人戦地売春婦像”を、其処此処に立てて廻ったり、挙句に、軍事的な国際基準も知らず/学ばずに居て、外国機(日本の自衛隊機)に射撃照準レーダーを向けるなど、およそ、知能程度が疑われるような韓国軍艦乗組員の行為を、“軍ぐるみ、国ぐるみで擁護したり、逆に居直ったりする”愚かさには、あきれ果てる!
まるで、そこらじゅうの壁にスプレー・ペイントで落書きをして廻る悪餓鬼どもと同じ“低知能レベル”ではないか!
日本では、こんなのは放っておくという意見も有るが、放っておくと、何時まで経っても、彼らの目は覚めないだろうな。
むしろ、親切心で面倒をみても、それを“恨み”に変えてしまう人種だから、無駄だ!
悪餓鬼も、痛い目にあったことが無いと、益々増長するってのは、古来からの(社会)通念だ。
この際、日本(政府)も、思い切って、親心だと思って、韓国に厳しくお灸を据えることを考えるべし!甘やかすばかりが、育てることではない!
それに、個人名まで挙げて侮辱して来た相手を、日本政府・安倍内閣は、許すべきではないと思うが。
奈良・山辺の道 歩く 「一月五日」
2日に初詣を兼ねて、信貴山・朝護孫子寺へ歩いて登ったが、その余勢を駆って、3日には「山辺の道/山邊道」を歩いて来た。
一昨年は、奈良・桜井から天理までだったが、今年は、天理・石上神宮から桜井へのコースにした。
冬場なので、目を見張るような景色は無いけれども、所々でちょっとした赤色(の実)も見られる。(図1)
また、柑橘類の黄色が、鮮やか!
しかし、そうした実が、畑一面に落ちて転がっているのを見るにつけても、何とも勿体無い感じ。だが、拾って持ち帰るわけにも行かず。(苦笑)
(出来れば)蹴飛ばしたくなったのは、どんな事情かは知らないが、マナー違反を承知の駐車。足を捻挫してもあほらしいから、蹴飛ばすのは止めたけど。(図2<クリック>)
「山辺の道」の三輪・大神神社近くで、お父さんと手を繋いでよちよち歩きをしていた“男の児”が可愛かった♪
声を掛けたら、ニコっと微笑んでくれたし、後から来た年配の女性が手を振ったら、それにも応じてバイバイをしながら通り過ぎて行った。
歩くのが愉しくてたまらない様子だったのだが、やはり、ご両親の育て方も上手なのではないかと、嬉しく思った。
昔は、子供の成長を願って、“這えば立て、立てば歩めの親心”と唱っていたが、今は子供の欲しがるものは何でも与えるか、あるいは親の欲求をそのまま押し付けるが、“子供を成長させること”にはまったく無関心な親が多くなっていて、甚だ嘆かわしい! “少子傾国”、“少数精鋭?”
『電子工作マガジン』(旧版) 「一月一日」
『電子工作マガジン (旧版) 各氏著 電波新聞社 2011年11月 1刷 ¥1,200+税』 (購入 各¥100税込み)
年末に、店頭に置かれていた/放り出してあった(?)放出品の中に、旧い雑誌を見たので、半分好奇心で、2冊ほど買ってみた。
店の広告を見ていて、えー!?この店はもう無くなっている筈だが。。。と驚いて、改めてこのマガジンの発行日をみて、納得!
それに、写真にある道具類の中に、「ハンド・ドリル」などがあったりして、懐かしい!
でも、今時、そんな道具が手に入るのかなぁ?と思ったり。
また、各地にパーツショップ群が健在なのは、嬉しい限りだ!
記事も、やはり“組み立てキット”類が多いが、筆者の方たちも、テーマの“技術レベル”と“必要パーツ類の調達”とのギャップを埋める為に、色々工夫が必要なので大変だろうと拝察。
私などは、“百均グッズ”は(挨拶無用の)パーツ代用品だと思っているのだが、わざわざ(無断・無残?使用を)断って居られる筆者も居て微笑ましい。
年少の孫達に見せようか?と思ったが、これは、ちょっと/かなり/まったく無理!(笑)
前に、動く組み立ておもちゃを買って与えてあるので、それを一緒に組み立てる練習を積み重ねて、いずれ工作に興味を持ち始めてからだな。(気の長い話だが...)