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物事追及集 二〇一六年十一月版


中国の大減速の末路  「十一月三十日」
『中国の大減速の末路 長谷川 慶太郎著 東洋経済新報社 2015年7月 1刷 ¥1、500+税』 (購入¥200税込み)

“中国経済は崩壊する”という想定の記事や本が多い中で、この本は、“減速する”という想定なので、まだ“読み”は妥当・適切なのかもしれない。
大体、シナ・中国経済が(自律的に)破綻するということ自体、残念ながら、あり得ない事だろうと思うからだ。
今のように世界経済に食い込んで来ている以上、単独・独走で崖っぷちに走って行っているわけでもなし、シナ・中国がこければ、世界中が皆こけることになるのだ。

それに、政治体制が、共産党一党独裁から、将来、これ以上に民主化が進むとは思えない。
起こり得るのは、党内での権力闘争だが、その結果、多少の軌道修正はあるかもしれないが、それ以上ではないだろう。

そこで、私達一般庶民は、シナ・中国の崩壊を期待するのではなく、独裁政体でもいいから、(常識のある相手として、)巧みに付き合う方法を考えておかねばいけないだろうと思う。
日本は昔から、不思議と、シナ・中国に対しては、“モノ申さない姿勢”で来ている。
でも、そろそろ言うべき事は、はっきり言う姿勢を取った方が、(お互いに)良いと思う。
だが、日本の政治家達は、相変わらず“物言えば唇寒し”状態で、いわんや日本国内でそうだから、ましてや国外・外国には於いておやだろう。
日本の政治家や首相が、米国のトランプ次期大統領やフィリピンのドゥテルテ大統領のように、本音に近い処を平然と口に出来ればいいのだが、一般日本人には多分受けが良くないだろうし、『言霊の国・日本』では禁句が一杯あるから難しいかな。



春秋名臣列伝  「十一月二十六日」
『春秋名臣列伝 宮城谷 昌光著 文藝春秋 2005年11月 1刷 ¥1、619+税』 (購入¥200税込み)

これまで、この著者の中国古代の小説は、幾冊も読んで来てどれも面白かったので、これもそれだろうと買って来た。
だが、残念ながら、これは面白くない。
ども、著者の“メモ書き集”を拝見しているような感じで、事実・史実の羅列ばかり。
この本は、小説というより、むしろ、参考書としての価値があるのではないか?

紹介されている人物(群)にしても、著者の筆で肉付けがなされて、生き々々した人物像として描き出されていないと、謂わば教科書を読まされているようで、至極味気無い。

ただ、史実として、現在何処まで分かっているのか、あるいは分かっていないのかが分かるので、参考にはなる。(分かっていない処は、小説家の筆の振い処になるわけだ)

しかし、こうした“古代の名臣”の“優れた点”とはどんな人柄能力を指すのだろう?
一番、分かり易いのは、“賢君を助け民に善政を施すタイプ”だろうが、単に争いごと・戦争に強いタイプとか、自国の安定の為に外交や権謀術数を廻らせたタイプも、そうした中に入るのかもしれない。
最終的には、その人物を取り上げた“著者の好み”によるところが大きいような気もするが、私達読者は、その著者の感性や思想に共鳴出来るか否かにも依るわけだ。・・・まぁ、それで良いと思うが。



言霊の国の掟  「十一月二十二日」
『言霊の国の掟 井沢 元彦著 徳間書店 2001年7月 3刷 ¥1、700+税』 (購入¥200税込み)

世の中の動きに関して、先々の見通しを持っていると、思われる著者にも、やはり、それ程先読みが出来ているわけでもないな!と思った。
それは、『政治はいやしい』という節のこんな記述からも分かる。
なぜこれほどまでに、日本の政治の質は悪くなってしまったのだろうか。それは、対象への関心が薄れてしまっているからだろう。...だから、日本人は、もっと政治というものに関心を持たなければならないのである。...今の奥様方は、ご主人が政治に関わることをするというとほとんどの方が反対する。..

日本の政治の質については、今も昔も将来もそれ程変わらないのではないかと思う。
日本では、それ程、政治が高品質(?)である必要性が無いからだが。

私達日本人一般は、平生は“何事もなく平穏無事に過ごすこと”が基本的な願望だから、事を荒立てたり何事かに猪突猛進することは甚だ迷惑だ!と思っているし、それを政治的に解決するってことなど、自分達にはそんな智恵も気力も無いし、むしろ煩わしいだけだと感じてしまう。
そんなのは他人に任せておけばいい!誰かが上手くやってくれれば、それで結構!ってことだ。

乱暴な言い方だが、“芸能”でも“政治”でも、要は“他人事”で、“末梢事”に過ぎないのだ。
これからの世の中、情報が溢れかえり、遠方でも近くなり、“関心事”が益々増大して来ると、一つのことに集中して物事を考え行動する人は少なくなるだろう。
例えば、一般の若者達に、“友人は何人居る?”って尋ねてみると分かるが、“大勢居るよ!”って返事から、現状の“薄く淡く広く”が良く分かるだろう。
だから、この著者が指し示すような・・・もっと政治に関心を持て!・・・というのは、どだい無理な話だ。
むしろ、宣伝が上手な商品が、“バカ売れ”する時代だから、(それにあやかって?)“政治家の方が巧い宣伝をしなければいけない時代になって来ている!”と見た方が正しいと思う。(苦笑)



史記の風景  「十一月十八日」
『史記の風景 宮城谷 昌光著 新潮社 1997年4月 1刷 ¥1、400+税』 (購入¥200税込み)

この本は、シナ・中国以前の史記に描かれた古代中国での故事来歴や古人の知識・知恵を綴った、謂わば“ショートショート集”だろうと思う。
例えば、こんな話がある。
『商人という呼称は、商王朝の商から生じたようである。...。 ....もっとも、商王朝のつぎにくる西周王朝に貨幣経済は成立していないのであるから、以上の仮定はまったくの妄想であるかもしれない。...』

この“商”王朝は、以前は“殷”とも呼ばれ、現代になってその廃墟が発見された時“殷墟”と呼ばれ、教科書にも写真が載っていたような記憶がある。
後になって、“殷”ではなく“商”だと修正されたが、交易を主とした商業が始まった時代として、知られるようになったはずだ。

しかし、もし貨幣経済でない社会だったら、“商業”ってどんな風だったのだろう?という興味も湧いて来る。
ここでは、通貨は「貝」だったろうと書いてあるが、“価値・価格の決め方・判定”など、そんなに上手く機能したのかな?...多分、機能したんだろうな!と半分納得、半分疑念。
その内、読書中に、その疑念を払拭してくれる話が出てくるかも。



林蔵の貌(かお)(下)  「十一月十四日」
『林蔵の貌(かお)(下) 北方 謙三著 集英社 1994年6月 1刷 ¥1、600税込み』 (購入¥200税込み)

下巻で、間宮林蔵という人物の、別の面が益々顕著になる。
それは隠密という役柄であり、それも蝦夷地ではなく、九州の薩摩や長崎の探索などや薩摩武士達との暗闘もある。
しかも、寒冷地での自然との闘いにも強いが、人間との争いにも強く、一種の傑物的な人物として描かれている。
ちょっと出来過ぎでは!?という感じが無いでもないが、私達が知らない/表立っては見えなかった部分の(著者の想像・創作に依る)肉付けだから、無碍に否定は出来ない。
むしろ、そうした“林蔵の強さ”を愉しみながら読めた。

当初は、間宮林蔵という人の「地図作り職人」としての姿を見たかったのだが、予想/期待に反して、別の(実存の?)人物像を見せられた感じ。

少し話題を変えて、米国に次期大統領はトランプ氏に決まったが、この話は“本音が建前に勝った”と言うべきかな?
尤も、この傾向は、既に日本では普通(例えば、“セクハラ、パワハラ、モラハラ”など本音主張の大流行など)になって来ているのだが、米国はこれから始まるようだ。
こうした“本音主張”の傾向は、他世界にもどんどん波及するだろうと思う。



グーグル秘録(続)  「十一月十日」
『グーグル秘録 ケン・オーレッタ著 土方 奈美訳 文藝春秋 2010年5月 1刷 ¥1、700+税』 (承前

これを書いている今日(11/8)は、米国の大統領選挙だが、未だ今は結果は分からない。
(11/9に結果判明。やはり、本音−トランプ氏の方が、前へ出て来た。現実は後からついて来る)
しかし、あの選挙の様相をみても、昨今の欧米世界(そして、東南アジアでも?)は、(建前が崩れ、本音が浮き出る方へ)大きく変化しようとしていることが分かる。

この本の第二部の終わりに、ローレンス・レッシング氏の、グーグルを評する言葉に、このようなのがある。
『...「善良な人々が自らを欺くというのは、よくある話だ。自分が正しいと思うあまりに、まわりが見えなくなってしまうのだ。九〇年代のマイクロソフトがそうだった。今日のグーグルも同じ気がする。自分たちは絶対だと思っているんじゃないか」
私は、(バランスを重んる方だから、)こうした良識派?の皮肉も理解は出来る。
だが、変革者達は、“自分達が絶対だ!”と思って居なければ、“変革”など出来はしないだろうと思う。
まぁ、人間の世の中で、果たして“変革”が必要なのかどうか?ってことは、例えば寝ている間の“寝返り”や起きている時の“ノビ”のようなものを考えれば分かることだ。
つまり、“変革”は否応無く引き起こす/起こされる物事だと思う。

で、“変革”が好きか?嫌いか?なのだが、私達日本人の多くは、そうした“変革”を極端に嫌うらしい。
だが、その“変革”が完遂され、終ってみれば、今度はそれにベッタリ追従するあまりに、今度は次の“変革”を嫌うわけだ。(やれやれ!
米国親方も変わりつつあるから、(民主主義)子分の日本もそろそろ、「憲法改正」や「皇室典範」の改定などで、“変革”して行ってもいいのでは?!



沙中の回廊(下)  「十一月八日」
『沙中の回廊(下) 宮城谷 昌光著 朝日新聞社 2001年2月 1刷 ¥1、700+税』 (購入¥200税込み)

下巻の始めから、騒がしい。
在位が七年という短さだった襄公が急逝して、周りは慌ただしく次の君主選びに奔走する。
自家の命運に拘わるからだ。
特に、次の君主が幼君にならざるを得ない場合は、必然、その擁立者・後見者が権力を握ることになるからだが。
当時も、血筋とか系列とかいうことで、君主を選んだらしいが、結局は、(何時の世も)陰の権力者・実力者が決めてしまうのだろう。

翻って、今の日本国について思うと、果たして誰が(陰の)実力者・権力者なのか、それが居るのかが疑わしい場面が度々ある。
国民主権などと云っても、単に“烏合の衆”の自分勝手な権利主張だけなので、国を動かす主体・権力は、何処にも無いのでは?

先般、天皇陛下自らが、「譲位」について、ご要望を述べられた。
それにも拘らず、判断・処断を預けられた私達日本国民は、何も決められない!とおろおろするばかりだ。
まぁ、今の世の中、何でもパーフェクトでなければいけない!それもピンからキリまでのコンセンサスが必要だ!てな愚にもつかない想定・設定では、結局、何も進まず、何も決められずの(自滅を待つばかりの)小田原評定になってしまうだろう。

天皇陛下や皇室には、日頃から、私達国民は、「日本人の“善意の半身”を具現して頂いている」ことで、大変お世話になっていることからも、“御恩をお返しするチャンス”だと思うべきだ。
日本国の主権者は誰か?その総責任者は誰かを考えたら、私達国民が何時までも逃げ回っていてはダメだ。
政治利用云々とか、憲法や皇室典範がどうのと言い訳する前に、さっさと国民の代表者である内閣や国会で、決めて差し上げるべきなんだ。
(今の日本国憲法のように、他国から与えられたら直ぐに実行し、後々何の疑いも持たずに守り続け居ている国民性だから、決めても何も問題は無い!)

問題は、安倍首相の意欲・実力次第ではないかと思う。(憲法改正の方は、もう意欲が薄れたようにも見えるが、果たして...)



沙中の回廊(上)  「十一月四日」
『沙中の回廊(上) 宮城谷 昌光著 朝日新聞社 2001年2月 1刷 ¥1、700+税』 (購入¥200税込み)

シナの古代・春秋/戦国時代は、殆ど“戦乱の日々”だったらしいが、その中で生きる人達は、余程逞しくないと生延びることが難しかったのではないか?
尤も、黙って消えて行った弱い人達は、歴史にはあまり残されなかっただろうし、こうした小説にもならなかったろうし、それに、他人にはあまり面白い話にはならないだろうと思う。

引き換え、この本の主人公・士会は、相当逞しかったようで、自分で自分の道・途を切り開いて行ける力量があったわけだ。
元々「士家」は下っ端の家柄で、士会はその家の末弟で、日本でいう“冷や飯食い”の立場だったようだ。
親は、官職に就くことを望んでいたが、本人は武術を磨き、誰かに属すことを考えていて、やがて重耳に見出されたという。
...多分、この後、士会本人は、主人・重耳の為に獅子奮迅の働きをするのだろう。(今は、未だ其処まで読めてない)

読みながら、ふと、今の安倍首相を、傍で援ける者は居るのだろうか?などと思った。
見掛け上は、官房長官が、その立場なのだろうが、実際問題、積極的に敵と戦う役割を担っているわけではないだろう。
その他の大臣にしても、首相の足を引っ張る輩は居ても、首相を庇って敵を倒すほどの力量も気力も無い人達・連中ばかりではないかな?!
敵が野党やマスコミだとしたら、自らがあっさり闇討ち・返り討ちに遭うだけで、敵を倒すどころではないもんなぁ。(苦笑)
以前の橋下氏なら、そうした力を発揮されていたようだったが、今はいずこ?(笑)



長城のかげ  「十一月二日」
『長城のかげ 宮城谷 昌光著 文藝春秋 平成8年5月 1刷 ¥1、400税込み』 (購入¥200税込み)

「写真」は、“風景全体”の中から“自分好みの一角”を切り取って残す手段だが、この本の「各編」は、歴史の中から“ある人物の生き様”を切り取って示す“額縁付き動画(?)”のようだ!と感じた。
“深み”を呼び起こさせるという点では、“動画”などよりも、こうした“中篇小説”の方が味わいがある。

この中の『逃げる』の編では、項羽の配下であった季布の心情と動き、項羽をその末期まで助けようという実直な生き方を描いているのだが、これを読みながら、“出来れば、私も、そうありたいものだが...”と思う。
だが、情報や知識や行動範囲が広く、豊富になり過ぎた現代社会では、なかなかそうは絞り切れないものだ。
例えば、(身も心も投げ出せるような)“尊敬や服従に値する人”が居るか?と問われたら、今では即答はし難いもんな。
それは、“欲”が分散し過ぎている所為だろうな。


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