導育甘言集 2014.11   表紙頁]へ   我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴)]へ

羽生の頭脳(10) [1129]
『羽生の頭脳(10) 最新の横歩取り戦法 羽生 善治著 日本将棋連盟 平成6年12月 1刷 \1,000税込み』 (購入\108税込み)
この本を拝見していて、益々、私の頭が固くなっている|なり過ぎて来ているのを感じた。
“ある局面”に対して、その後の“様々な分岐”や“様々な変化”の解説があるのだが、それらに付いて行けない。
というより、「元の形」を忘れてしまい、どう変化して来たのかが、朧気にしか浮かばなくなってしまうのだ。
考えてみると、“将棋の戦い”は「先を読む」というより、「過去を思い出す」ことの方が必要なのではないかと思うようになった。
つまり、「(起こり得たであろう)過去のパターン」を丹念に追跡・研究・記憶しておいて、それを実戦の場で思い出して評価・利用するわけだ。
ただ、その「パターンの領域」は広大なので、対戦相手がどの領域に向かっているかを察知していないと、勝負にならない(負けてしまう)可能性もあるらしい。
羽生氏が強いのは、(若い頃からの)「変化の研究と記憶」、それらの「適時応用」が出来るからだと思う。

それに関連して、「教育」とか「創造」を考えてみると、基本はやはり基礎例や過去例を沢山覚えることではないか。
「実用」や「応用」、「創造」は、それらを使って(任意の、あるいは必要に応じて)新しい組み合わせを見出すことだろう。
...ということは、やらせれば、コンピュータでもかなり似たようなことが出来るはずだなぁ。
...もしかしたら、その内、“天下無敵”になるかも。(「鉄腕アトムの頭脳」か?それとも、無機物「HALの脳」か?)
問題は、そのトリガー(切っ掛け)の発生・生起方法をどうするか?!だろうけれど。

電子ブック 小説 [1126]
『剣客商売 池波 正太郎著 Kobo book
魔流さんから頂いた「kobo」本、読もうと思っている幾冊も溜めてはあるのだが、なかなか手が行かず。
暇が無いと言えば嘘になるが、目下暇さえあれば「コンピュータ将棋」との対戦ばかりで、暇が無い(!?)
その合間に、硬い|固い本を読んでいるが、理屈が分かるからそちらの方は面白い。
息抜きに、偶に小説を嗜んでみるが、どうも口(?)に合わないものが多い。(途中放り出し組)
先ほども、米村圭伍氏の『紅無威おとめ組 かるわざ小蝶』(電子ブック)を読み掛けて、途中で放り出してしまった。(折角の無料本なのだが)
何か話の筋が軽薄で、起きる事件も必然性が無く白々しくて、面白くないのだ。

これはいかん!...“小説”を読む力が衰えたか?と、以前に頂いて読んだ池波正太郎氏の『剣客商売』を読み返してみた。 ・・・ ところが、こちら方は結構面白くて、没入出来る!やはり、筆者の筆力・実力の違いなのかな?あるいは、相性の問題か?
結局、喩え作り話であっても、話に“リアリティさ”と“驚き”が無いとつまらなく思う。
やはり、“元は重厚で高級、高性能、高機能だった品物のジャンク”の方が、“ペラペラの安物新品”よりも、ずっと“値打ち”があるってことだろうな。

栄光の岩壁(下) [1123]
『栄光の岩壁(下) 新田 次郎著 新潮社 昭和四十八年二月 2刷 \500』 承前(1117
上巻が面白く無いわけではなかったが、この下巻になってから俄然、迫力が増し、熱が入って最後まで一気に読んでしまった!
この著者は、雪山登山の経験があるのか、文章にも迫力があって、諸所で“実際の情景”を見ているような錯覚を覚えた。(勿論、私の方は、経験は無くて想像だけなんだが)
この小説の主人公の「竹井岳彦」は、実在の人物「芳野満彦氏」をモデルにしたそうだが、それは“あとがき”で知った。
では、時々登場する悪役(素人詐欺師?)「津沼春雄」はどんな(実在?)人物なんだろう?と思ってしまった。
主人公が、好人物の山男であることとの対比で小説的に面白くするために付け足した人間だろうけど、何度姿を現しても、渋々受け入れてやる主人公を、もどかしく感じてしまうのだが、...私の小人物性のせいなのかな?(苦笑)
しかし、この主人公は、自分で生活費や登山費用を稼げるようになるまで家族の支援が無ければ、やって行けなかった筈だし、他人の遭難に多額の遭難救助費用を苦労して作り出さないといけなかったことなどを考えたら、私は、つい彼の「お金」の調達方法のことを考えてしまった。
私は、“生活”とは、自分の限られた収入・「お金」の範囲内で出来るだけ沢山の“愉しみを得る工夫”だと思っているのだが、他方、目的成就の為に必要な「お金」は、その都度掻き集めるのも一つのやり方かもしれない...と思ったり。
このやり方は、例えば突発事故、天災や人災など非日常的なことが起きた場合、その対処姿勢・方法にも通じるのではないか。

アダムの呪い 第21〜23章 [1120]
『アダムの呪い ブライアン・サイクス著 大野 晶子訳 ソニー・マガジンズ 2004年7月 2刷 \2,000+税』  承前(1102)
Y染色体」(男性)と「ミトコンドリアDNA」(女性)の隠れた熾烈な戦いは、現実世界で様々な形で現れているようだ。
例えば、領土拡張欲と永遠平和主義、強い戦闘能力と弱者・被害者意識、はたまた男・女家長制度、あるいは一夫多妻制と離婚容認制などは、「Y染色体」と「ミトコンドリアDNA」“お互いの優位性”を維持・拡張しようとする現れだ。
だが実は、「ミトコンドリアDNA」側は、何もしなくても優位性を保てる構造・構成だし、その気になれば“胎児の段階”で、「Y染色体」(男児)を(ある程度)調節・抹殺してしまうことが出来るらしい。

そのことから、“同性愛”の意味について、この著者はある(納得出来そうな)結論を引き出したという。
“同性愛”が一種の遺伝病だと考えられた時期もあったが、そうではなくて、(もしかしたら)「ミトコンドリアDNA」(女性)の陰謀かもしれないという仮説だ。
本当は「Y染色体」(男)などを生みたくないと考えた「ミトコンドリアDNA」(女)は、胎児の段階で“男児”を“同性愛者”に作り変えれば、“平穏に”、かつ“自分の味方になる後継者”を産むことが出来るわけだ。
...なるほど!だから、子孫を作れないはずなのに「同性愛者」は減らないで、むしろ増えて行く可能性もあり、また権利主張も強くなるってことか!?

これまでの世界の歴史を見ると、どうしても“Y染色体の横暴さ”が目に付くが、昨今の“ミトコンドリアDNAの人権・権利主張”の拡大などは、それへの反撃と見ることが出来そうだ。(“女性の社会進出要求”なども、その一環だろうな)
今の日本の世情に当て嵌めると、産経新聞が「Y染色体」の代弁者なら、朝日新聞は「ミトコンドリアDNA」そのものかも。
...となると、朝日は絶対に降参などしないわけだ。(苦笑)

栄光の岩壁(上) 続き [1117]
『栄光の岩壁(上) 新田 次郎著 新潮社 昭和四十八年一月 1刷 \500』 承前(1114
この本は、読んでいると色々考えさせられることが多い。
中でも、「精神力」については、私達凡人は、もっとアナログ的な適用を考えるべきではないか、と思わせられた。
例えば、弱い精神力なら、弱いなりに上手く使うべきだと思う。

この主人公が経験した雪山での遭難、それで足の凍傷と足先切断、そして小林医師の指示による歩行訓練と実際に血が滲む努力によって、歩けるようになるまでの(強い精神力の)話を読んで、改めて、そう思ったのだが。
つまり、精神力が強い人だけが生き残る話は、それはそれで意味があるだろうが、では、精神力が弱ければ使い物にならないのか?問うてみたい。

私は、そうした「精神力」を中途半端にしか出せないとしても、十分使い道はあるんだってことを、もっと考えるべきだと思う。
特に、自分の身体の不全、不具合に関しては、そこそこの「精神力」で、支えたり改善したりすることが出来るのではないかとも思っているからだが。
例えば、「身体損傷」や「アレルギー疾患」や「癌」にしても、(色々な話を読むと)「治したい!という強い意志」(つまり精神力)が働けば、改善・治癒に大変有効だと分かっている。
だけど、私達凡人・弱者は、それを信じなかったり、面倒がって早々に諦めてしまう悪癖(!)があるから、直ぐに医者や薬に前面的に頼ろうとして、折角の「(自分の)精神力」も生かせないままになってしまっているのが、現実ではないか。
喩え小さなことでも、“精神力”≒“気力”≒(気合を入れて実用にする)は、意味があると思う。
信じてやってみることの方が大切で、(厚かましいパーフェクトな結果は期待せずに、)だが、それで更に改善出来れば幸運!だと思う心も必要だろうな。(要は、ダメモトの心掛け!尤も、威勢がいいだけでは駄目だろうけど)

栄光の岩壁(上) [1114]
『栄光の岩壁(上) 新田 次郎著 新潮社 昭和四十八年一月 1刷 \500』  (購入\108税込み)
“物事への挑戦”の話は好きなので、この本の上、下を、かなり以前に買って置いてあったのだが、なかなか読む機会が無かった。
機会は自らが作るもの...ということを思い出して、兎に角、開いてみた。
いやぁ、文字が小さい!それに、頁内にびっしり文字が並んでいる!今時の書籍の“ゆったり文字群”とは、やはり違う。
確かに、経済成長期には「コスト・パフォーマンス」を重視した“文字びっしりの書籍造り”だったのだろうと思いながら読んでいる。

主人公の「竹井岳彦」は小・中学校時代、ガキ大将だった話や、山(登山)に惹かれ始め、アルバイトをして高価なピッケルを買う話などが語られている。
今時の私などは、山登りが好きなら、実用性があれば“道具立て”など適当でよいのではないかと思ってしまうが、やはり、当時はそれが、登山家の“ステータス・シンボル”であり、“命の次に大事なモノ”だったのだろう。
一方、それは“自分を律するための精神杖(?武士の刀!)”のようなものだったのかもしれない。
そういえば、今の日本人(男性)は、そうした“精神の支え”を持ちたくても、“もう何も無い!”というのが現状ではないか。

これだけできれば [1111]
これだけできれば将棋初段 田中 寅彦監修 成美堂出版 1995年4月 1刷 \980税込み』  (購入\560税込み)
昔から、“ノウハウ本”というのは余り好きではないのだが、この本はすっかり気に入った♪ ・・・ 少し立ち読みしてから、高価だったのに思わず買って来てしまった。
「詰将棋」やその他「解説・分析本」も参考にはなるし、“あ!なるほど!”と思わせられるのだが、この本には負ける!(と思う)
それは、実戦の流れの中で、次に“打つべき手”は何か?を考えさせるように配慮されているから。
私だったら、その“手”に気が付かず、何と無く気が向いた“別の手”を指してしまい、(“待った!”をせずにいると、)結局は、負け込んでしまうのだ。

あ、そうか!なるほど!巧い手だ!と、毎頁感心させられる。
ま、少し大袈裟過ぎるかもしれないが、“わくわくして、次が早く読みたくなる本”なんて、「冒険小説」(!)並みかな?z(^^;?
読むのを放棄した先日の小説本「闇に生きる」とは対照的だ。

光速より速い光 [1108]
『光速より速い光 ジョアオ・マゲイジョ著 青木 薫訳 NHK出版 2003年12月 1刷 \2,300+税』  (購入350税込み)
この本は、(BOOK-OFFで)百八円ではなかったが、どうしても読みたくて買ってしまった!
だって、自然界には『光速』を超えるものは無い!...はずなのに、先般のニュースで、「光速を超える仕組みを作った」との報道を見たし、この本の著者はれっきとした科学者だし(!ご自分でそう書いて居られる)、“光速を超えるものは無い”という“常識”にも何となく違和感を覚えているので、『光速』というものについてもう少し知りたく思ったからだ。

どうやら、『光速』が(真空中では)一定値だというのは、便宜上そうしておくと都合が良くて、「宇宙の始まりや経過」を“ビッグバン理論”や“インフレーション理論”で巧く説明出来るし、(一方で)宇宙の構造や(他方で)我々人間の生活圏の状態をちゃんと説明出来る。
だが、この著者は、そうした常識に挑戦し、“『光速』は状況によって変化し得るもので、速い光速もあれば遅い光速もあるはずで、特に「宇宙の始まり」の段階では超光速が有り得た”と考えれば「宇宙の成り立ち」を上手く説明出来るという。[VSL:Varying Speed of Light理論]
ただ、最近の宇宙研究では、「光速の不変性」は保たれているという報告(JAXAプレスリリース-2009年)が出て来たから、VSL理論の“確かさ”も危うくはなって来ているのだが...さて、どうなのだろう?

面白いのは、こうした理論が脚光を浴びるのは、主に宣伝上手なアメリカ産(!)が多くて、欧州産(!)の理論は黙殺・差別され易いことを著者が嘆いているくだりが、其処此処にあることだ。
こうした宇宙論などは、どれだけ裏付け実験をする賛同人口が増え、どれだけ実証例が増えるかによって、「理論の確かさ」が変わって来るので、“その理論への人気”も重要なことらしい。
(「理論」も、一種の人気投票式で成否・正非が決まるらしい。この本では、ユーモアや皮肉を交えてさらりと書いてあるが、科学研究の世界も結構どろどろした世俗的な部分はあるようだ。それに関知したがらないのは、私達一般日本人ばかりかも)

私は、『光速』が“有限の一定値”だということが、何だが不自然で気に食わないのだが、“便宜上そうしておくと、理論上都合が良いからだ”と聞けば、納得も出来る!
他方、物質内では『光』を超光速にも出来るらしいから、何か面白い応用が出て来そうな予感がするのだが。(笑)

闇に生きる(二) [1105]
『闇に生きる(二) 繩田 一男編 柴田 錬三郎、他 新潮社 1990年4月 1刷 \1,600税込み』  (購入108税込み)
これは、本の中身よりも、自分の“気分”に抑制されて、弾いてしまった。
以前は、こうした時代小説も面白く読ませてもらっていたし、今回のこれも「編者解説」を見て面白そうだったから買って来たのだが...
読み始めて、どうも退屈...というか、なぜか面白くないのだ。
始めの「忍者からす」は一応最後までさっと読んでみたが、後の編を読む気がしなくなった。
目下、(理詰めの)「将棋」に凝っているせいかな?とも思うが、そんなに“息抜き”が出来ないほど凝っているはずがない!...とか思ったり。(苦笑)
この本は、自分の“気分”が変わるまで置いておくのも棚のスペースが無駄なので、またBOOK-OFFへ返納しようと思っている。
(全編が面白くないわけではないと思うが、やはり「オムニバス形式」だと最初で気勢をそがれると、後に続けられないなぁ。苦笑)
まぁ、これはもう始末して...次に、深遠な宇宙論の本(『光速より速い光』)が面白そうなので、それを読み始めたところだ。

アダムの呪い (第十八章) [1102]
『アダムの呪い ブライアン・サイクス著 大野 晶子訳 ソニー・マガジンズ 2004年7月 2刷 \2,000+税』  承前(1021)
前回(第十七章)では、チンギスハーンの征服した汎図の中に、紛れも無く“彼のY染色体の痕跡”が見られるという研究成果を得られた話があった。
それは、Y染色体の乗り物(!)である“人物”の権力・繁殖力による処が大きかったせいだろうとしたのだが、では自分(サイクス氏)の存在はどうなのだろうと疑問を持たれたそうだ。
そこから、自分の姓サイクス)の起源を追って、英国の片田舎の遠い親戚やその地の小学校の古い記録を訪ね、そこで同じ姓を引き継ぐ男子の数の方が、女子のそれを17%ほど上回ることを見い出したという。(お蔭で、自分の存在があるのだという事実を見付け出されたわけだ)

ということは、後世代にまで(自分の保有する)遺伝子を引き継がせるためには、男子の子供を多く生み育てないといけないわけだし、そうでなければ、やがて「私のY染色体」は消えてしまう運命にあるわけだ。
おっと!...私の子供は、二人とも娘だぞ!...それに、私達の親は男子三人を生み育てたが、私達兄弟の中で、男の子供二人を設けたのは一番下の弟だけだ!
...ってことは、彼の方に「(男系)Y染色体」が移されたってことらしいが、残念ながら、数的には減ってしまった!
...どうやら、“私が内蔵しているY染色体”は、どう足掻いても、いずれ絶えてしまうってことらしい。(苦笑)

以前、日本皇室の女性天皇の可否が話題になったが、遺伝子的な考え方からすれば論外の話で、それは日本(大和民族)の血筋に、(言葉は悪いが)“よそ者Y染色体”の浸入・侵略を許すことにもなりかねないわけだ。
まぁ、戦後の(無節操な自由主義)思想が、そうした『日本の善き伝統』を敢えて崩そうとして来ているわけだが、“日本古来のY染色体”の強さがどの程度なのかは、今後更に試され続けるということだろう。

私個人としては、そうした『善きY染色体』を将来に残して行きたいとは思うが、現実の世情を見ると、(女性側の)“ミトコンドリアDNA”の方はそんな事には無関心だから、(女性の)権利主張に押されて、日本全体が平均化・劣悪化の末に疲弊し、やがては“日本人Y染色体”は消えて、別の(Y染色体)遺伝子群に入れ替わってしまうのではないかと危惧している。
最近の国の調査(産経新聞の記事)では、日本人の80%以上が、もし生まれ変わるとしたら日本人を望んでいるそうだが、だとしたら、「日本国」を維持するために、もっと男子系(「日本人のY染色体」)を大事に(賢く強く)育てなければ!

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