導育甘言集 2012.09    我楽多苑 別亭 (真面目な愚痴)]へ      表紙頁]へ

藤原不比等 [0930]
『藤原不比等 いき 一郎著 三一書房 1997年2月 1刷 \2,678税込み』 (購入\200税込み)
著者は、この本で、藤原不比等に関連する事柄で、判っている事、判らない事などを丁寧に分析・検証されていて、「日本書紀」、「古事記」、「聖徳太子」などは、やはり不比等らの創作物であったらしいと示されています。(これは、もう定説か?)
どうやら、「聖徳太子」は作られた像だったのは確からしいですね...でもまぁ、これの方は、像であっても当面害は無いだろうと思ってます。

しかし、この本で気付かされたのは、藤原不比等が渡来人の子孫で、在来の大和民族の庶民にとっては、“性質の悪い為政者”だったらしいことで、無反抗だったチクシ(倭国)やエミシ(東国)を、無理やり征伐して、中央集権国家を作っていったことなどは、留意しておくべきでしょうね。(他方、大陸や半島からの圧力に対抗するために、早く強い統一国家を作り上げねばならなかったのも理解は出来ます)
つまり、彼らは一種の“日本征服者”、“圧政者”であり、日本古来の「大和民族」の味方・保護者でも何でもなかったわけで、そのことに関して、第三章の著者の激しい憤りも分からなくはない。(しかし、それがゆえに大陸の保護領に成り下がらなかっただけマシではなかったか?と思いますが)

ただ、藤原不比等らが、日本古来の神祇や天皇制を維持せざるを得ず、「大和民族」の精神的支柱を完全に潰してしまえなかった点から考えると、私達日本人としての精神的独自性|アイデンティティを、其処に置けるのではないかと思いました。
まぁ、天皇家にも藤原家の血が混じったり、私達自身にもその血が入っていることはあるでしょうが、その底には「日本古来の精神性」が脈々と流れ続けていると。
・・・ と大層な物言いですが、やはり「私達日本人は...」と言う時、自分達が何者なのか、何を受け継いでいるかをちゃんと知っておかないといけないと思いますからね。(だから、日本人は...何でも神頼みや権威が大好き...なんでしょうかねぇ?)

核武装なき「改憲」 [0928]
この本が書かれたのは2006年で、ちょうど安倍晋三氏が日本国首相の座に就いた時期ですが、この著者は、かなり安倍首相に期待していたようです。(でも、現実は、病気のため早々と退陣を余儀なくされてしまいましたが)
以前から「日中紛争」が見え隠れしていましたが、当時も、シナ(China)の揺さぶり(日本への内政干渉=靖国参拝問題など)が酷くて、その前の小泉(元)首相も、次の安倍(元)首相も苦戦されたそうですね。
でも、“首相の芯の強さ”は、国と国との「駆け引き」や「争い」の際には、重要な要素のようだ。
他方、隠れた所から巧みに足を引っ張る“国内勢力”があって、それらに邪魔されて、なかなか「日本国の国益」になることが出来ない状況が作られてしまうようです。
(具体的には、“日本の国内問題でも、シナの国益に反する”などと触れ回るマスコミ(朝日新聞など)もそうした勢力のひとつでしょうが)

昨今は、野田氏を使って?国民の目を国内問題(消費税増税など)に引き付けさせている間に、外から徐々に日本を押し潰しに来てますね。
見掛けはそうでなくても、実質的には同じことが起きています。
例えば、今は「日本の経済建て直し」が必須の時期なのに、わざわざ増税を仕掛けて景気を抑えに掛かり、更に、尖閣諸島にいちゃもんを付けて「反日テロ」を煽って、在中日本企業に経済的打撃を与え、更に日本経済を疲弊させようって手は、敵ながら見事なお手並みです!

現下の「日中紛争(尖閣領海荒らし、反日テロ、経済制裁)」でも、シナは、長期的に全体として自分達が有利になるような状況を、巧みに作り出して来るのに対して、日本は、常に受身でそれを局所化して小手先の応対だけで済まそうする、大変拙い性癖があります。
私達日本人は、将棋や囲碁のように長期的・戦略的に考えて一手一手を打たないと、やがては王手か、何十目もの負けに繋がる。(泣)

日本では、単に歴史教育の偏向是正だけでなくて、もっと戦略・戦術思考が出来るよう、義務教育に織り込みたいですね。また、日本人の多くは、そうした突っ込んだ思考・議論が苦手で嫌いなので、ともすれば子供達にも教えない風潮がありますが、そろそろ変えて行かないと!

核武装なき「改憲」 [0926]
『核武装なき「改憲」は国を滅ぼす 片岡 鉄哉著 ビジネス社 2006年11月 1刷 \1,500+税』 (購入\105税込み)
この本によると、今までに何度も「憲法改正」や「再軍備」や「核武装」のチャンスがあったのに、殆どを日本自身が止めて来たそうですね。
「憲法改正」が出来ないまま来ている原因は、どうも私達日本人は“物事を長期的に深く真剣に考えず、面倒だから、本能の赴くままに、表面ズラだけで片付けてしまう性癖”のせいだろうと思います。
この著者によると、「今の(マッカーサー)憲法」の内実はあまりにも空虚だ!と指摘されていますが、確かに、私にもそう見えます。

具体的に指摘されている点は、
 (1)「日本国民は ・・・ 再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し ・・・ 」とあるが、日本国民は「決意」を実現する手段を持たないから、これは片思いに過ぎないと。
(例えば、敵からボコボコにやられても反撃しなければ、当然“戦争”にはならない、代わりに“惨禍”は避けられない!この矛盾!)
 (2)「日本国民は、恒久の平和を念願し、・・・ 崇高な理想を深く自覚する ・・・ 」とあるが、「念願」も「自覚」も一方的で片思いだと。
(例えば、“深く自覚”したって腹が膨れるわけでもなし、真に「(日本人が生き抜くための)実用的な憲法」とは言い難い)
 (3)「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して ・・・ 」とあるが、結局は他人頼みであると。
(例えば、シナ政府から、意図的に“反日テロ”を仕掛けられても、“まぁ、平和的な申し入れだけはしてますが...”なのですから、埒が明くわけはない)
 (4)「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とあるが、日本はキレイ事をいうだけの国なのだと。
(例えば、幾らお金を出しても、未だに国連で常任理事国にして貰えない現実は、“思ふ”だけでは通用しない証左ですね)

私が思うに、「再軍備」については、当時は軍備にお金をつぎ込む余裕も無かったので、肩代わりを米国にして貰っていたが、それが過ぎて、甘え体質が何時までも尾を引いているのが現状。
「核武装」については、広島・長崎被害のトラウマの後、先般の福島原発事故を経験してしまったから、当分は「原子力話」を聞くのも嫌な話でしょうね。これからは、“ナイフで手を切ったから、もうナイフは世の中から無くしましょう!”と云うだけになるのが心配です。
(「ナイフ」と「原子力」とは次元が違う!って云うかな? ・・・ 次元なんて、ちゃんと説明も出来ないのに?)

大川わたり [0924]
『大川わたり 山本 一力著 詳伝社 平成14年3月 4刷 \1,700+税』 (購入\105税込み)
この小説も、面白かった!腕の良い職人が博打に嵌(はま)った後、危うく難を逃れ、まっとうな生活に立て直すまでの話。
一度低い生活へ落ち込むと、本人の多少の努力だけでは、とても立て直すまでには到らないのが、人の世の常です。(尤も、本人にその気が無い時には、何ともならないでしょうけど)
結局は、抜群に力量のある「他の人達の手助け」があって、何とか回復出来てハッピーエンドになるわけなんですが、そんな処が小説だってことでしょうね。
まぁ、それを読んで愉しむ一方で、“世の中、そんなに「力量のある助っ人」は多くないがなぁ...”と苦笑したりして。
「自助努力」だけでは足りない(もしかして、そんな努力はしたくない?)から、ひたすら「他力援助」に夢を託すようになってしまうんですが、今の日本や日本人って、そんな夢ばかりを見ているのでは?と、思ってしまう時があります。
この本を読んで、改めて「現実」は、「小説」ではないのだから、やはり『自助努力』だけで何とか凌(しの)いで行かないければいけないんだと、強く思いました。(例えば、“シナの意図的な領土侵略”は、日本(人)自身が跳ね返さないと、自然には解消されないですからね)

武士道 [0922]
『武士道 新渡戸 稲造著、奈良本 辰也訳・解説 三笠書房 2004年3月 38刷/1997年7月 1刷 \1,076+税』 (購入\105税込み)
これは、英文で書かれていて、主旨は、欧米人に“日本の武士道とは何か” を紹介するためだったそうです。
考えてみると、「武士」や「騎士」は、元々戦いを専門とする職業人のはずですね。
そうした戦士達も文化人化するに従い、(生存本能だけで戦っていた)昔の野蛮人とは違った(お互いに無差別殺人をしないための)規律やスタイルを身に着ける必要が出て来た。
それが、西洋では「騎士道」として確立したわけ。
この著者は、『勿論!日本にも、「武士道」という独自の(自己規律の)スタイルがあるのですよ!それは「義」、「勇」、「仁」、「礼」、「誠」、「名誉」、「忠義」、「切腹」、「刀」などで説明出来ますよ!』と書かれています。
特に私が注目したいと思ったのは、『武人の究極の理想は平和である』の項ですが、今の“日本武人”と“シナ軍人”とは、どちらも適正な使い方がされていませんね。日本の自衛隊は「平和を維持する」ためには用いられず、シナ軍人は「口舌合戦」や「他国領土侵略」にしか用いられていない。
実は、そうした考え方や精神が、日本人一般の生活態度にも浸透している...はずだったのですが、この著者も嘆いて居られるように、やはり、次第に“消えて行く運命”にあるみたいですね。
崩れて行く生活態度を眺めていると、岩山が風化して砂地に変わって行くのと同じ“自然の摂理”で、留めようがないのかも。(泣)

中国暴発 [0920]
『中国暴発 中嶋 嶺雄古森 義久共著 ビジネス社 2005年1月 1刷 \1,500+税』 (購入\105税込み)
この本を読んでいると、私達日本人、特に国会議員や外務官僚たちは、シナ(China)に媚びるあまりにか、自分達のやっていることの意味が、殆ど分かっていないらしい事が良く判りました。(自分達は、良い事だと信じてやっているらしいが)
例えば、彼らの誘導で、彼の地の企業誘致にうかうかと乗って、徹底的に毟(むし)られ、大損をして撤退した真面目な企業者達が多く居るそうな。でも、殆ど報道はされていないし、誘導した責任もウヤムヤのままだそうです。

日本の報道(マスコミ)の大手−日本経済新聞朝日新聞−が、シナ政府の広報誌「人民日報」と業務提携!をしているそうなので、その悪影響が強いのかもしれませんね。
シナ政府による情報統制は意のままらしいから、向こうに都合の良い話は大々的に、悪い話はまったく報道されない/しない。
(「朝日」はそうだと聞いていましたが、「日経」は今まで意識していなかった!)

今、日本にとって一番の問題は、シナ本土に進出した日本企業群ですが、実は、人道・倫理的にもかなり問題がありそう。
シナの従業員の給料などは、国家統制で厳しく低賃金に、抑えられているそうです。
が、日本企業はそれを承知の上で、地方政府や当局幹部達に取り入って操業の認可を受けているので、「賃上げ交渉」などは皆無らしい。
となると、安く作られた製品・商品は、どんどん日本へ送り込めるけど、現地の従業員達の生活水準は上がらないままだし、自由経済の原則(次第に人件費が上昇し販売価格が上がるため、次の低賃金国への生産地移行が始まる)も生きて来ないわけですね。

私は、彼の地への日本企業の進出は、「現地の人達の生活向上」にも大きな効果があるのだと思っていたけど、殆どがそうではない|そうは思われていない事が分かって、頭を切り替えねばならない事を痛感しました!
昨今、シナ本土で起きているシナ大衆の「反日暴動」は、どうやら“日本企業が、地元を潤していて喜ばれている”といった状況を超えてしまっている証かもしれませんね。(つまり、“そんなの、カンケーネェー!”なんですねぇ)

甦れ、日本外交 (続) [0918]
読み進めて行くに従って、この著者は、どうやら大した正統派・保守的な硬骨漢のようにお見受けしました。
『愛国心なき人間は良き国際人ではありえないというのは私の信念である』と書かれていますし、其処此処に、良識人としての意見があります。ただ、個々の施策については、多々問題がありますね。
「効果が出ないように見える/思える時には、何もしない、動かない」といった姿勢は、私達(浅薄な?)庶民・市民から見ると、甚だじれったい!
真に国益を考えるなら、もう少し策を弄したり、動き回ったりしても良さそうに思うのですがねぇ。
そう思ったのは、“北方四島返還活動”における佐藤優氏や鈴木宗男氏の(小賢しい?/こまめな!)動きに対して、この著者は(エリート意識丸出しで)批判的・侮蔑的のようです。本来は「4島を気長に求めながら、何もせずに待機していて、天佑に期待すべきだ」と仰っている。

(著者が非難している鈴木氏の介入行動は別にして、鈴木氏達の考えていたように、)なぜ、先に2島返還を決めなかったのでしょう?そうしてから、2島へのインフラ投資を増やして経済的に持ち上げていれば、今ではかなり違った“4島環境”になったのでは?
ところが、この著者の“待ち姿勢”の結果、2012年現在の4島の状況(ロシアなどによるインフラ整備中)があるわけですが、何か少しでも日本にとって有利に改善されて来ているのかなぁ?というのが、私の疑念。

「愛国心」や「外交専門技能」があり、「毅然とした態度」を堅持すれば、すべての外交が上手く出来るのかどうか?
例えば、文化国家の水準以下で、常に狡猾な策を弄する“相手|敵”に対して、「技」も「知恵」も無い日本が、上手の外交が出来るものなのかどうか?大変疑問ですね。(日本の昔の剣豪が、ショットガンを持った相手と対決するようなものでは?)

甦れ、日本外交 [0916]
『甦れ、日本外交 なぜ外務省はダメになったか 村田 良平著 扶桑社 2002年8月 2刷 \1,524+税』 (購入\105税込み)
読み始めて、いきなりこの本|著者に教えられました!
外国との『友好』や『平和』は、目的ではないってことを!
それらは、あくまで「得たい結果」であって、そうあって欲しいけれど、その途中では喧嘩(紛争)や恫喝(脅し)や駆け引き(騙し合い、譲歩)などの「外交手段」が無ければ、実現は難しい!ってことです。それには、勿論、国民の「後押し」も重要な要素らしい。
でも、私達日本人は“そうしたこと”が嫌い嫌いで、出来れば頬かむりや口を噤んだままで、“嫌な手段の実行”は誰かにやらせたい、と思ってたり。その態度が、モロに政治や外交姿勢に反映するみたいですね。
そして出るのは、“愚痴”か“他人の非難”ばかり。そのくせ、自分達は、ぬくぬくした結果(『友好』や『平和』)だけは欲しい!...?

これは、私達自身、大いに自己反省しないといけない問題ですね。
今、課題になっている「尖閣諸島」や「竹島問題」や「北方領土」についても、他人事のように外務省や政府の弱腰を責めるだけでは、ダメでしょう。むしろ、応援や支援してやらなくては!(それには、マスコミでも、ミニコミでもアピールすべし!)
引き合いに出して悪いけど、沖縄の「基地反対運動」や「オスプレイ反対運動」なんて、単純に自分達に“今だけ、好ましい結果”をもたらすことしか考えていないようですね。「日本国全体の安全確保」については、“なーんにもしらん!”っていう風に見えますが。
でも、これからの相手は誰?敵は何処? ... 皆で一緒に、よーく眼を開いて見て、何をすべきか何が出来るか、を考え直す時では?

早教育と天才 [0914]
『早教育と天才 木村 久一著 玉川大学出版部 2005年6月 16刷/1977年7月 1刷 \1,500+税』 (購入\105税込み)
この本は大正期に書かれた書物だそうで、色々な意味で驚きました。
内容は、「カール・ヴィッテの教育」を代表例として、早期教育の実例やその有効性、重要性を紹介、評価、示唆していて、発行は旧いけど現在でも即通用する啓蒙書だと思います。
こんな啓蒙書も、夏目漱石翁の「ぼっちゃん」ほどには、人口に膾炙(かいしゃ)していないのはどうしたことだろうか?それが、今の日本の教育に反映されていないのは、なぜか?とか、大変疑念が湧いて来ます。
“天才”という言葉が入っていると、多くはそれを毛嫌いする傾向があるから、仕方がないのかな?とも思いますが、それにしても勿体無いですね。

大体、私達日本人は、“抜きん出た人”には敬意(?)や注意(!)は払うけれども、自分が努力して、少しでもその方向へ動きたいとも思わないからでしょう。(それに“出る杭は、すかさず、打つ”ってお国柄ですし)
私は、子供達が少しでも“天才”に近付けれられればいいな!と思っているのですが、多くの親は“まぁ、並で(も)いい!”と済ましちゃって。

ところで、この本の中に、大変重要な示唆がありました。将に、眼から鱗が落ちた感じ!
それは、「学校での集団教育は、子供の成長には、決していいものではない!」との事です。
確かに、よく考えてみると、子供自身の個性は抑え付けられるし、悪童連からの悪影響は避けられないし、指導役の教師・校長の大半が俗物だし、集団生活での人間性涵養も多寡が知れているから、(保護者・教育者としての)親が独自に、しっかりした教育を子供に施せば、(義務教育の)学校なんて無い方が良いのかもしれません。勿論、親達の責任がどっと重くなる。
今の日本で、学校の無い「子供達の日常」なんて、想像出来ないかもしれないなぁ。きっと、ホントに無くしてしまったら、親達の“途方に暮れた顔”が眼に浮かぶようです。(笑)

やればできるんよ [0912]
『やればできるんよ 山廣 康子著 ダイヤモンド社 2005年4月 3刷 \1,300+税』 (購入\105税込み)
この本は、著者の実体験を元に綴られたもので、荒廃していた中学校を、殆どこの方(かた)一人の力で立ち直らせた話。
生徒達は荒れ放題だし、教師達はやる気がなく、周り(父兄たち)も“札付き学校”と認めてしまっている状態から、3年間の努力で見事に普通(以上?)の学校に戻されたそうです。
これを読んで、やはり、こうした抜きん出た人物が引っ張らないと、何事も改善されないものか!と、一面で暗然たる気持ちになりました。
凡人校長や凡人教頭、凡人教師達だけだったら、恐らく何時まで経っても何も良くならなかっただろうし、この学校も変わることはなかったでしょうね。
世の中に、こうした人材が沢山居れば、“問題学校(群)”が増えて来ることもなかっただろうと思いました。
でも、残念ながら、世の中にそうした人材は、左程多くは無さそう。(だって、この本が話題になるくらいだから)
だとすると、えらく遠回りにはなるけど、“この校長のような人物の育成”には、やはり「教育制度の抜本改革」から始めないといけないだろうと思いますね。
これまでの状況をみると、“教育界”だけで「自己改革」が出来た験しがないから、もう、あそこの言い訳は無視すべし!
で、「政治の関与」を考えると、『日本維新の会』に期待をしたいが、今の処、あまり“教育熱心”でも無さそうなので、是非注力してくれるように訴えないといけないかも。

“超能力”について [0910]
下述の『タカツカヒカル』をネットで検索していたら、色々な意見が見られました。
『超能力』否定派、肯定派様々ですが、その見解にも、ちょっと“論理飛躍的”なものが多い感じ。

例えば、“・・・ 物理学的な法則を超えたものです ・・・”とか、“・・・ その行っていることは当然神秘主義に基づいていて、科学的精神と反するものです。・・・”とか。
(「こういちの人間学ブログ」より一部引用。恐縮ですが、一つの例として挙げさせて頂きました。<(_”_)>)

よく使われる言葉−『物理法則』や『科学的』ってのは、実は自分が今知っている“事実”だけや“仮説”だけで、それも極めて狭いものなのですが、それらを使うと、如何にも“森羅万象の真実”を語っているかのように錯覚しますね。
でも、「法則だ!」って偉そうに云ってみたとて、所詮(しょせん)は、法則に出来そうなものだけを“法則にした”に過ぎないし、残りの出来ないものは全部、「法則」にはしてないという弱みがある。
身近なことで、素数=3,5,7, ,11,13, ,17,19, ・・・は、なぜ飛び々々なの?って子供達に問われたら、“うーん、超法則だ”って答えますか?
更に、法則を超える物事なんて、世の中には一杯!地震、雷、火事親父?これらは、何時大事故になるかの“法則も無い”!(苦笑)

また、「科学の法則」は、時代を経るにつれて拡大するもので、ニュートンの「万有引力の法則」は、後世代に考え出されたアインシュタインの「一般相対性理論」の一部になってしまいました。これなど、将来はもっと大きな「宇宙理論」の一部になるかもしれませんね。
そうなると、今の「超能力」だって、いずれは「通常能力」に成り下がってしまうかも。
(いや、逆に「今ある能力(暗算力など)」が衰えて消えてしまって、未来にはそれが「超能力」と思われるようになるか?)

こんなことだから、“科学的に説明出来ない”と云う時、それは単に“自分(達)の無知さ”を述べているだけなのです。
例の“大槻教授”は良くこの言葉を発せられますが、あの方は結構役者のようだから、多分判っていてしゃべって居られるのでしょう。(でも、本気だったら、日本の科学教育のお粗末さの証しになるなぁ!)
私達人間は、ホントに知らないことが山ほど有るのに、さも全部知っていて、全部物理法則などになっているのだ!と思っている処は、愚かで怠慢で救い難いけど、でも、それだけに改善のし甲斐がありますよね。(ん?)

無音潜航 [0908]
『無音潜航 池上 司著 角川書店 平成16年10月 1刷 \1,600+税』 (購入\105税込み)
これは冒険小説ですが、今でも起こりそうな事件なので、手に汗を握って読んでいました。(大変、面白かった!)
もし、こんな自衛官が実在されて居るなら大変頼もしいのですが、主人公の「藤井艦長」は相当(知略・智謀に)優れ過ぎ!の感あり。(小説だから、当然か!)

シナ(China)海軍の首脳との親善交流後に、(別途、突然仕掛けられた日本と韓国での放射性物質による同発テロ事件が切っ掛けで、)“大連港”を出た日本海自の潜水艦『さらしお』が、途中で溺者(北朝鮮からの脱出者)を拾ったばっかりに、被攻撃状況に追い込まれる。
北朝鮮海軍とシナ海軍の「艦艇」や「原子力潜水艦」や「対潜哨戒機」から「攻撃」や「追撃・艦体接触=体当たり」を受け、それらをしのぎながら藤井艦長が智力を尽くして“黄海”から脱出しようとする様子が描かれています。
まぁ、普通の日本人だったら、こんな風にシナ海軍から「追撃や衝突」をされたら、即「理不尽な攻撃・戦争」だと解釈してパニックになるでしょうね。そして、直ぐに浮上して、「われ攻撃を受く!如何にすべきや?」って無線で日本国内へ指示・司令を仰ぐかな?

でも、藤井艦長は、シナ海軍・原潜の艦長の意図は、この『さらしお』を北朝鮮海域に追い立てて、北朝鮮海軍に仕留めさせるつもりだろうが、その手に乗らず逃げ切ればよかろう、と読む処が凄い!...で、お互いにギリギリのせめぎ合いをしながら、武器を使わずに、相手を自分(達)の意向に従わせる/従わない方法を探り試みるってわけ。
敵艦長の気分次第で、撃沈されてしまう恐れが多分にあったのですが、そこは小説ですから、上手く切り抜けられたのですが。

日本の潜水艦・自衛艦は、(憲法に縛られて)先に攻撃が出来ないから、敵の魚雷や爆雷で撃沈されてしまうと、全く反撃するチャンスが無いし、シナが隠してしまえば「追撃や体当たり」の真相も明るみに出なかったでしょうから、まさに危機の連続!
こんな小説を読んでいると、今の日本国憲法は「防人達(さきもりたち)を縛る危険な拘束衣」のように思えて来ます。だから、憲法は、早く適正に直したいですね。

超能力サラリーマン [0906]
『超能力サラリーマン タカツカヒカルのヒーリング・セミナー 高塚 光著 東急エージェンシー 1994年7月 4刷 \1,500税込み』 (購入\105税込み)
この方(かた)の考え方・生き方が、大変愉快で、お話も気に入りました!
普通のサラリーマンが、超能力を持ってたっていいじゃあないか!って。(笑)
それを、宗教手段や主収入源にされていないって処が、私みたいな低所得の凡人には、嬉しいですね。・・・ で、ちょっと練習してみたくなりました。
でも、この方の超能力発症(?)は、どうもバイク事故が原因?|切っ掛け!ではないかと思うので、書かれてあるように練習すれば簡単に超能力が持てるかどうか、やや疑問。
むしろ、この本での書かれているご意見、『・・・ もう今の世の中、自分で自分の身体を守っていかなければいけない時代なんじゃないかと、身体に対してよくないあらゆる世紀末的な環境からは、やはり自己免疫力を鍛えなければ、守れない。生きていけないですよね。・・・』には、強く同感・納得しました!(まぁ、近頃は医師も段々減って来ているそうですから、丁度イイ!)
その意味でも、自分に使える“ヒーリング能力”の開発は、(難しくても)意味がありそうです。(暫く、練習してみよっと!)
(この方の、その後の消息が知りたくてネット上を探したけど、仕事上で大変なご苦労をされたらしいこと以外は不明。でも、まだ“超能力を持った普通の人”であって頂きたいですね)
後日、ご本人のらしいサイトを発見出来ました。[Backup39

プリンシプルのない [0904]
『プリンシプルのない日本 白州 次郎著 ワイアンドエフ 2001年5月 1刷 \1,600+税』 (購入\105税込み)
この本の中で、頻繁に出て来るのは、『「日本国憲法」が米国からの押し付け品で、いずれは(自主的に)改憲すべきだ』という著者の見解。
直接に、何度も関わり掛けた人物だけに、黙って居られなかったのでしょう。
指摘されている事で、成る程!と思ったのは、この憲法の前文に、「日本国民は、・・・」と始まる点で、『日本人の癖として、自分(達)の義務や権利について、自分(達)を主語にして、それから書き始めるなんてことは、まず有り得ない!』って書かれていますが、私も、確かにその通りだと思いますね。
そいや、GHQ草案には「We, the Japanese People, acting ...」とあるらしいが、その欧米式発言を、そのまま翻訳して使ったことは歴然としてます。
まぁ、あの時点では、米国の押し付けであろうが何であろうが、受け入れざるを得なかったようですが、問題はその前段階での日本側のアクションが何とも言えぬほど拙かったらしい。
マッカーサー将軍が、近衛文麿氏に憲法改正を示唆し、京大・佐々木惣一教授に試案作成を依頼したそうです。
しかし、(能力不足で?)作れないまま、時間切れや近衛公の自殺などで立ち消えになってしまったそうです。
そして、未だに日本国の憲法は、昔の頂き物のままだし、日本の保安(安全保障)は米国任せのままですね。
私達日本庶民は、食べ物や着る物には、ひと手間もふた手間も掛けるのですが、こうした美味しくもないものには、なかなか手間を掛けようとはしませんね。
(“九条の会”?だけは、今の憲法をそのまま護持しよう!なんて、手間暇掛けて、力んでいるようですが、“憲法全体を新しくしよう”なんて手間を掛けるつもりは無くて、“苦情一本槍”でお茶を濁すだけ?)

蒼龍 [0902]
『蒼龍 山本 一力著 文藝春秋 平成14年6月 3刷 \1,571+税』 (購入\53税込み)
この著者の小説に、“外れ”は少ないだろうと思っていたのですが、油断が過ぎました。
この単行本は、既載の幾話かの“短編・中篇”を纏めたものだとは知っていた(?)のですが、初めの「のぼりうなぎ」をうっかり“長編”のつもりで読んでいたので、突然話が終わって、次の話「節分かれ」が入って来たのに、思わず唖然としてしまいました。(頭の切り替えが出来なかった!)
「うなぎのぼり」は、腕の良い指物職人が、大店の主人に見込まれて呉服屋の(俄か)手代として勤め始めるが、古くからの奉公人に疎外されながら、苦労に耐えて行こうとする話。
組み合わせに少し無理があると思いながらも、主人公の技能や知恵に期待していたのですが...
でも、殆ど先の展望、成功も見えない時点で、いきなり話が終わってしまったので、“それはないだろ!”と思ったわけ。(ま、終わってしまったものは仕方が無いけど...)
...この本は、まず最後の「蒼龍」を先に読んでから、初めに戻って「うなぎのぼり」を読む方が良かったようです。そうすれば、話がいきなり途切れてしまうのにも慣れるでしょう!?(現実には、事前にそんな選択が出来るわけはない!⇒後知恵)
この本は、“希望”や“期待”は残されているけれど、どの話も、ハッピーエンドで終わってはいないってことです。

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